芥川龍之介のこんな写真、なかなかないでしょ。でもね、芥川ってのは、ポマードつけて、びしっとしてるのはだめなんだね。
「こう苦悩してるふうじゃなくちゃ。」
「・・・・」
私小説、という表現形式。これは、写実主義と個人主義のあいだでうまれ、さらに伝承性を付与したものだ。こういうひとがいる、むかし男ありけり、ってね。
しかしそうなると、作者そのものに関心がでてくる。こいつは、どんな男なんだ。
「これだってそう、『ある日の芥川龍之介氏』という記事、なんてことはない、ただ劇みにいって何食ってた、ってだけだ。しかし作家の日常ってものが切り売りされてくるんだね」
つまり作品とまた別に、作者というものが表現形式にかかわる。作家それ自体が、表現媒体になってくる。
「ということでまあ時間がきちゃったな、」
「先生、」

ビートルズの歌詞とかご覧になったことは?
「ああ、ビートルズね、」
「『バレンタインのカードに並んでそうな』とニューズウィークに最初揶揄されてたけど。」「ああ、あれは何といったか、マネージャーがすごかったという、彼らという人間を伝説化したね」
「音楽はとくにそうなったし、そうなる過程はビートルズあたりから出たとおもいます。」
「ははあ、」
「人間そのものが表現媒体になり、かつ、書いたテクストにも「私」が現れる。見る側は、「こいつなんでこんな自分のなさけない話かくんだろ」と思う。それは作者の単なる露悪趣味かもしれない、あるいは、露悪家として格好つけたかったのかもしれない。さておき、見る側は「私」の物語だと考えます、彼らが書いた歌詞を。憂鬱な表現が気に入ると、その表現媒体として作者の人間に文句をつけだしたりします、いまは明治時代よりも消費者の注文がえらくなってるし」

どうしてニルヴァーナとか聴いてないんだろう。
私小説が売れると、作者が表現媒体になる、っていう話はグランジとか、オルタナのいちれんのミュージシャンをみてれば思うことだ。芥川の程度の寝癖ではすでに音楽は物足らない。カートコバーンの洗ってないブロンドとくたくだのネルシャツ、ああいったものをどうして見てないのか。しょうがないからビートルズの話(世代的にわかってもらえそうだしニル花よりは)とか持ち出したけど、東大教授でもちゃんとニルバナとか聴いててほしいと思う。ダニエルキース読むんなら、ジョニーロットン自伝も読んでほしいし。モジリアーニの絵がいいんなら、トムヨークだっていけるはず。モジリアーニの絵はゆがんで美人でないが、鑑賞したい動機が現代人には既にある。OKコンピュータの疑念をはらむのはトムヨークの代わりにモジリアーニの曲線の中の人間でもいいと思う。「ルーザー」ベックの直線的な無関心、アンディウォーホルの無関心な缶詰にちかい。(実際じいちゃんはアンディウォーホルと交流があったとか。)似ているものは、あまりに最初からくだらない垣根によって隔てられている。ひとは容易に踏み込んでいかないように思える。そこに設置されている柵、アンディウォーホルとベックと芥川龍之介とモジリアーニとトムヨークとを分けている柵は、対象をそれぞれ保村するのでなく、単なる風景の一部に貶めている。柵はとりのぞかれねばならないと思う。あるいは社会学か、いやそのアプローチはすきでない、社会の構成員が社会を見た結果、というのは疑わしい。より文芸的なあまりに文芸的な手段が欲しい。