ヘンな大人ばっかりだなあと思う。こういうブログで、じぶんがへんなことばっかり書いているのは自覚しているけど、実際にへんだなあと思う大人はへんなことをいう大人とはちがう。ガマンをしない大人である。


私が思うに、暑い寒い辛い痛い、というのはコドモが言うもんだと思っている。コトモはじぶんで工夫をするというとこまで考えが至らず、すぐ周りがどうにかしてくれるということも自覚して痛いだの暑いだのとさわぐ。ガマンしなさい、と大人が言おうがさわぐ。そうやって叱られる。叱られるのはいやなので、うんっとガマンすることを覚えだす。ガマンができんようなら、ガマンしないでいいような方法を考え出す。靴のひももじぶんで結べるようになっていく。そういうもんだと思う。

けど、インターネットなどでとくに思うのは、大人があっさりと痛いだの辛いだのといったことを吐露するという状況だ。正直びっくりした。インターネットという媒介がいけないのかとも思った。いけなくはないのかもしれないが、大の大人が赤裸々に泣き喚いたり何だりするのは (見なきゃいいと思ってなるべく見ないのだけど) どうにも奇妙に思える。しかも、同情してくれない周囲に対して非常識な暴言を浴びせたりする。あまつさえじぶんに同情するべき理由を列挙していたりする。なんだかやりきれない。そういうことが余計に気になるのであんまり見ないようにマジでしているのだけど。自分を同情に値すると考えたってロクな結果にならない。他人は自分を甘やかすために存在しているベビーシッターではない。大人と付き合うのなら、暑い寒い痛い辛い、多少の不具合は飲み込んでせいせいした顔で付き合わなきゃいけないだろうと思う。もうじぶんの靴紐はじぶんでむすべる年齢なのだ。


ちょっと前よく、電車のなかで化粧をするOL、が非常識だといっていろんなところで取り上げられた。電車のなかで化粧するOL、確かにヘンだと思う。(OLも死語のような気がする)。しかしヘンなのはOLだけではない。サラリーマンだってヘンだ。彼らは化粧こそしないが、電車のなかでPSPに熱中する。あれって旗から見るとずいぶんヘンなのだけど、当人たちは何とも思わないのだろうか。スーツを着て、ガントチャートを書いて、プレゼンやって、で出社してPSP。ヘンだ。となりに並んでいる日能研帰りの小学生とまったく変わらない。日能研でていい学校にいっていい会社にはいっても帰りはPSPかよ、という感じで泣けてさえくる。泣かないけど。化粧をするOL,ゲームするリーマン、いやとくにリーマン、ネクタイしめてPSPカバンにいれてくるリーマン、あなたは大人の格好をしている自覚はあるのかと問いたい。スーツ着ても見栄はないのかと。リュックしょってチャリに乗るのに抵抗はないのかと。スーツ着て喫茶店きて「フルーツパフェのお客様」と言われるのに抵抗はないのかと。小一時間、問い詰めたい。



「パフェが食いたい。」「ゲームがやりたい。」というコドモの欲求がある。それに対し、「他人様の前でかっこわるい」というのが大人の見栄だ。大人はコドモを叱りつけ、こういう場所ではこうするものだ、と教える。ヨソにきたんだからウチとはちがう、とガマンを強いる。しかしそれがないままスーツの年齢になったゲームボーイズは大いに存在している。いや、本当はガマンの文化あることは知識として持っていてあえてしないのかもしれない。「ガマンするより自然体でいたい。」SPAとか見てるとおおいにそんな感覚がはびこっているように思われる。けど私は明治の人と呼ばれようとガマンが出来ない大人が大嫌いである。「暑いですね」「夏は暑いのが当たり前です。」別にここまでいかなくとも、暑い寒い痛い苦しい、多少の生理的要求は遮断して、他人様のまえではせいせいした体でいてほしいものだ。電車の中でゲームくらいガマンできないものかしら。「かっこわるくても心地いいものを手にいれたい」それじゃ、デパートの床でジタバタするコドモとちっとも変わらない。


コドモの頃、大人になったらこうなりたいというのがあったはずだ。それは野球選手だろうと何だろうと、カッコイイと思う大人の姿だったと思う。その子がタイムマシンにのって未来にきたとき、じぶんがまだゲームやってるのみたらがっかりすると思う。しかも、この大人はだらしなく弱音を吐くことと、自然体で欲求を伝えることに貪欲でもあるので、そのがっかりした子をつかまえて「過去に戻りたいんだ」ぐらい言うかもしれない。そんな事がありそうでこわい。そんなゲームがありそうで怖い。そんなゲームをやってるのがスーツを着たコドモでありそうで怖い。