司祭は目をそむけ、やっぱりその姿勢のまま、こう言ってきた。「絶望のあまりに君はそのように、話をしたくないのかね」と。べつに絶望してるわけじゃない、と俺はこたえた。ただ恐かっただけだ。にんげんだもの当たり前だ。そしたらさらにこう言った。「心配いりません、神様があなたをたすけてくれます」なにを。「どんなひとでも神のほうへ向かっていかれましたから。」要するに死刑囚ね。それは、そのひとたちの権利だっただろうね。
けど、そのひとたちってのは、おそらく時間があったのに違いない。死ぬのに余計なことをかんがえる時間が。だが俺は違う。俺には時間がない。そもそも、俺はいままで誰かにたすけてもらったことなどないし、何かにすがった覚えもまい。いまさら無駄だ。そういう時間はない。俺が、関心のないことや信じる気にもなれないことに、興味をそそぐほどの時間が俺には残っていない。

ちょっと司祭がいらいらしていた。手がふるえているのでぴんときた。ひらひらした、法会のすそをひっぱった。ぴんとしわのばしするといきなり「朋よ。」と俺に言ってきた。「あんたにこんな話をするのは、あんたが死刑囚だからじゃないよ。俺達はみんな死刑囚だ。」というような意味のことを言った。けどそれはちがう。だって現実、あんたは死刑囚じゃない。死刑囚は俺でしかない。「確かにそうです」ほらみろ。「けどまあ、私もいずれ死ぬんです。そのとき、どうやってその試練を受け入れられるか、実際ふあんです」だいじょうぶ、俺だって死ねるから。と言ってやった。俺が死ぬのをみるといいですよ。そのことばを聞くと司祭はガタッとドラマのように立ち上がって、俺を見た。俺という存在。目のなか。俺はこの遊びがなんであるか、ちゃんと分かっていた。むかしエマニュエルとかセレストとかとやった。俺がだいたい勝った。俺は目をそらしたりしない。司祭も、おっさんなりにこの遊びがやりたいのに違いない。おっさんなりに目がふるえない。司祭はとちゅうにもかかわらずこう言った。「あなたは何の希望も持たずに完全に死んでいけるというんですか?」とその声はふるえていない。
だから俺はこたえてやった「うん」と。