「傍観する者」、ある方の表現を借りるならばそれは「跨(また)ぐ者」とも言える。
二つに別れ行く道を目の前にして、どちらを選ぶか決めることが出来ずにいる者。
見極める為と称して、あるいはこれまでの様に、どちらからも“美味しい所”だけをつまむつもりで_
判断保留...
慎重な態度と言えば聞こえはいい、自分に対して言い訳も立つ
だがそのような態度、立場を今後も続けていく事がはたして出来るのであろうか?
「アセンション」「ディセンション」「トラバーユ」、一部では未来は3通りに別れると言われ
「ディセンション」= 堕ちる、と決まった(その道を選んだ)者たちには既に他の選択肢へのチャンスはなく
そうでなかったほとんどの者たちの目の前に、今ある選択肢が、「アセンション」= 次元上昇と、「トラバーユ」= 振り出しに戻って他所でやり直しという別れ道なのだという。
それは真実なのか?
「ひふみ神示」「火水伝文」などを読み返してみても、そうとはとれないのは私の目が(心が)曇っているからなのか?
時いよいよ現れ来たりたぞ。
これより先、新しき世に至るまで暫しの年月、
辛抱肝心ぞ。人民様、程度の差こそあれ
業火の死、遂げる者。
生き残り塗炭の苦しみ、受くる者。
二つに一つになりたぞよ人ごとでないぞ、汝も同じぞ。
悪人、善人らちもない。
死に行かれる者も、
残し置かれる者も聞くのざぞ。この度は
地球最後の転生の時、天意転換の時ぞ。
それ由の厳しさぞ。
これ程言うても解からぬ人民様ばかりじゃ。
汝関わり無きと思いせば、
その場で落つるのぞ。
謙虚になりなされ。もう間違え出来んのぞ。
最後のときぞ。
後はないのぞ。
神、頼むぞ。
そのままにありてマコトの改心申すものがどういう事か、
いつまでも解かりて無くれば、危ういと、
くどう申して居ろうがな。大事なこと由、忘れて下さるなよ。
わが身をすてて、三千世界に生きて下されよ、わが身をすてると申すことは我(が)をすてること、学をすてることぢゃ、すてると真理がつかめて大層な御用が出来るのであるぞ、それぞれの言葉はあれどミコトは一つぢゃと申してあろうが、ミコトに生きて下されよ。
今迄して来た事が、成程天地の神の心にそむいてゐると云ふこと心から分りて、心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまうぞ、借銭負うてゐる身魂はこの世にはおいて貰へん事に規則定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ。タテコワシ、タテナホシ、一度になるぞ、建直しの世直し早うなるも知れんぞ、遅れるでないぞ。建直し急ぐぞ、建直しとは元の世に、神の世に返す事ざぞ、元の世と申しても泥の海ではないのざぞ、中々に大層な事であるのざぞ。上下グレンと申してあることよく肚に入れて呉れよ。
此れまでの仕組や信仰は方便のものでありたぞ。今度は正味(せうまつ)の信仰であるぞ、神に真直(ますぐ)に向ふのざぞ。
方便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが、今度は何うしても失敗(しくじる)こと出来んのざぞ。
日向(ひむか)と申してあろがな。真上(まうへ)に真すぐに神を戴いて呉れよ、斜めに神戴いても光は戴けるのであるが、横からでもお光は戴けるのであるが、道は真すぐに、神は真上に戴くのが神国のまことの御道であるぞ。
神の経綸(しぐみ)には狂ひ無いなれど、臣民愈々苦しまなならんのざぞ、泥海に臣民のたうち廻らなならんのざぞ、神も泥海にのたうつのざぞ、甲斐ある御苦労なら幾らでも苦労甲斐あるなれど、泥海のたうちは臣民には堪(こば)られんから早う掃除して神の申す事真すぐに肚に入れて呉れよ。斜めや横から戴くと光だけ影がさすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きいものには大きい影がさすと臣民申して、止むを得ぬ事の様に思ふてゐるが、それはまことの神の道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でない様な影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。
真上に真すぐに神に向へば影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。此の道理会得るであろがな、神の真道(まみち)は影無いのざぞ、幾ら大きな樹でも真上に真すぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗(しくじり)無いのざぞ、それで洗濯せよ掃除せよと申してゐるのぞ、神の真道(まみち)会得(わか)りたか。天にあるもの地にも必ずあるのざぞ、天地合せ鏡と聞かしてあろがな、天に太陽様ある様に地にも太陽様(おひさま)あるのざぞ、天にお月様ある様に地にもお月様あるのざぞ。天にお星様ある様に地にもお星様あるのざぞ。天からい吹(ぶ)けば地からもい吹くのざぞ、天に悪神あれば地にも悪神あるのざぞ。足元気つけと申してあろがな。
今の臣民上許り見て頭ばかりに登ってゐるから分らなくなるのざぞ、地に足つけよと申してあろが、地 拝(おろが)めと、地にまつろへと申してあろが、地の神様忘れてゐるぞ。下と申しても位の低い神様のことでないぞ、地の神様ぞ、地にも天照皇太神様、天照大神様、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ、知らしてあること、神示克く読んで下されよ、国土の事、国土のまことの神を無いものにしてゐるから世が治まらんのざぞ。神々祀れと申してあろがな、改心第一と申してあろがな、七人に伝へと申してあろがな、吾れ善しはちょんぞ。十二月十四日、ひつくのかみ。
私の目に入ってくるのは、どれも二つの選択肢。“真実”を受け入れ自分のものとするか、しないか、それのみだ。
そして、ここで選択を誤った者、選択を放棄した者に未来はないということだ。
不安を煽るつもりはない、だが、大幅な後戻りになるとはいえやり直しのチャンスが残されているのならば、本質的にはこれまでの転生と大した違いではないと言える。そうであるならば、これほどに差し迫ったメッセージが出てくるのだろうかと疑問に感じるのだ。
三つあるのは選択肢ではなく、選択肢を目の前にした者の態度、イエスか、ノーか、判断の保留(そのつもりの放棄)なのではないかと思う。
今はまだ、二つの道は平行に寄り添い続いているように見える。だがこの先も、今まで同様寄り添い続けるとは到底思えない。
いずれは、急激に、一気に、気がついた時には既に大きく離れていた...
その時、跨ぎ続けようとした者はどうなる?その身(魂)を真っ二つに引き裂かれる。
そう成りはしない、と言い切れる者などいはしないだろう。
そう言うお前は、一体どうなんだ?と聞かれるならば、私もまた「跨ぐ者」の一人、未だ決めかねているものを幾つも抱えています。
以前、別の記事にも書いていますが私がこのブログに書いていることは全て自分に対する言い聞かせ、確認作業、防備録です。今、私はこう感じていると、皆さんにもお見せしているだけのことです。
この話はもう少し続けます
次回UP予定
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