彼の家には各階にトイレットがついている。これはおそらくこの家の設計者による家人の急ぎ尿に対する優しさか過去の過ちからだと勝手に思っている。彼自身、急な尿意を感じた際は何度も助けられた。
白い燭台を思わせる浮ついた形に、クリーンな照り返しは母親の日頃の掃除によるものか。たいてい薄ピンクか緑の便座カバーが被せてあり、足元のマットも同色である。ペーパーホルダーも同色だ。物心ついた時分から彼の、いや家族全員の重圧やわだかまりを呑み込んで解放してきた、古いトイレットだ。
そこにウォーシュレットを設置することになったそもそものいきさつというのも書いておきたい。
何よりもまず、ひどく老練なトイレットであった。
20年以上も職務を完遂してきた忠義の士である。外見こそいまだクールでその水流には鋭ささえ感じるが、老兵は確実に弱り疲労していた。トイレットに入ってみてすぐわかるほど、傷がちらほらとある。そこにいつものようにU字型の便座に座って、自らの内にあるもどかしさをひり出していく。
そしてある日彼はプラスチック製の便座の左側が、五分目ほどしか残していないのに気づく。J字型に。独立を果たした残り先端は便座カバーにささえられて床と垂直にぶらさがっていた。それは見るからにダイナミックな別離だった。
便座はどうやら彼の兄が座った際に折れたらしかった。でも折れる姿は頭に浮かべづらかった。"てこ"の気配がないからだろうと彼は思った。まあとにかくこうして1階のもののふは絶命したのだった。
すぐ後になって、彼はまた大学のある東京へ帰った。
彼はアパートを借りて一人暮らしをしていた。
実家のある青森では考えられないくらい高い家賃を支払っているにも関わらず、彼の部屋はユニットバスだ。狭くて湿っぽい。温かみの感じられない、他人行儀なトイレットだと思った。
使用者とトイレット、とりわけ便器との間には信頼というものが必要だ。身を投げ出す者と受け止める者。だもんで学校のトイレット、店のトイレット、まして公園等屋外のトイレットなんぞには大きいのどころか小さいのすら任せられない。完全なアウェーだからだ。
そんな彼にとってのホームとなるべきこのワンルームのトイレットといったら、じめじめと陰気だ、つまり彼は彼なりに苦しかったんだ。
帰省する数日前にウォーシュレットの話を聞いた。新し物好きの母はやたらと声が明るかった。しかし彼は複雑な面持ちでいたのだ。彼の中でトイレット、信頼という二つの言葉はもはや同じ土台の上に置かれていなかったからだ。正確には、そのどちらもが不当な場所でやきもきすることを余儀なくされたのだったけど。
朝一番の便で帰省し、昼前に実家に着いた。着くなり便意をもよおしたので、彼は急いで階段を上がった。自然と体が動いた。結局1階のトイレットには入らなかった。晩御飯の後にも階段を上った。
夜遅く、家族が寝静まった時間に、やっと彼は件のトイレットを訪ねた。確かめたいことがあったのだ。
彼はトイレットの前に立った。薄ピンクのカバーを上品に着せられている。
「よう、しんいり、どんな気分だい」じろじろと便器の周りを見てから、安心したように息を吐いて言った。でもそれは心の中で思っただけかもしれなかった。
「初めまして。俺もこの家の住人だったんだぜ、今はもう違うけど……」
今度は確実に声に出さなかった。その方がいいだろうと思ったのだ。
一つだけ聞きたいんだ、お前の、その、ウォーシュレットだけどな、肌に悪い影響とかないのか?一応家族が心配なんだよ。いや、悪く思わないでくれよ。聞いてくれ……ただ、君のことがわからないだけなんだ。君と俺は今こうして初めて会ったばかりだし、何かこう、お互いをがっちり繋ぐ物がないだろ。丈夫な橋みたいな。君はどうか知らないが、俺はすごく欲しいんだ。……東京では無理だったからな。少し辛くなることもある。
けどわからないってことが、目の前を暗くすることがある、そんなことを思ってさ。だから今日1日他の階のトイレットを使っていたんだ。ちょっとした意地でもあるし、気恥ずかしさもあったんだよ。でもまずは入ってみるべきだったな。
「よろしく」
彼は笑って、下着を下げた。
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ユニットバスタイプは好きになれません。