昨年末、ここに「楽譜の解釈について」という投稿をしたが、あの時「同じ曲なのに複数枚、別のレコードやCDを買うのは何故か?」というテーマで実は本稿の内容も書こうとしていた。しかし行き詰まり挫折したため、「演奏家によって音楽の印象は別の曲と思われるほどに変わる」という内容に止どめた。
このGW中に、当初書こうとしていた内容の整理がだいぶ出来たので(いや、暇だったので)書いてみよう。いけるかな?

ブルックナー。私がバッハ、モーツァルトと並んで敬愛する音楽家である。一つの同じ曲で、私がレコードやCDを最も多く持っている作曲家でもある。総枚数もバッハやモーツァルトより多いかな。
それは前のブログで言ったように、演奏家によって解釈が異なるという理由もあるが、それに加えて、ブルックナー自身が同じ曲で複数の稿(版)を残しているためである。そしてその改訂が本意なのか、不本意なのか、ブルックナー自身がはっきりしていないためである。

ブルックナーは1824年にオーストリアの片田舎で生まれた。敬虔なカトリックの家系で、彼も幼い頃から教会の聖歌隊で歌い、オルガンを弾いて育った。
最初に職に就いたのはオーストリアの農村の教員とその農村の教会のオルガニスト。さらに農家の農作業も手伝っていたらしい。
やがてブルックナーはウィーン音楽大学の音楽教授になり、その後、多くの社会的な名誉を与えられたが、大都会ウィーンにおいても、生涯を通じて飾り気のない素朴で気弱な田舎者であった。

ブルックナーはオルガン曲やミサ曲など、多くの宗教音楽を作曲したが、やはり0番から9番までの交響曲が素晴らしい(0番って何やねん?という疑問はさておく)。彼はそこで様々な独自の技法を開発し、マーラーと並んで(若き日のマーラーはウィーン音楽大学でのブルックナーの音楽講義を受けている)後期ロマン派音楽に分類されるが、音楽性(精神)はマーラーのような現代的な複雑なものではなく、極めて古典的な素朴なもので、最期まで豊かな自然への畏敬と神への敬虔な祈りに満ちた曲を残した。交響曲という世俗的な楽曲においても宗教的な意味合いを帯びている。ちなみにブルックナーは文学の素養は全くなかったらしい。ブルックナーはワーグナーを敬愛し、第1回バイロイト音楽祭で『ニーベルンゲンの指輪』を聴いているのだが、この北欧神話をモチーフにした物語を全く理解出来なかったという。多くのロマン派の音楽は文学的な叙情を表現するが、ブルックナーには文学的な叙情を表現しようとする企図など全くなく、純粋に信仰のみが彼の作曲のモチーフであった。

ブルックナーの問題はこれから。
ブルックナーはウィーンの音楽大学教授で学生に音楽理論、音楽技法を教える立場にあったのだが、彼の交響曲は冗長と呼ばれるほど長く(1時間を超える)、構造的、形式的から逸脱しているということ。彼の精神は時間的、構造的、形式的な枠組みに収まらず、その強度は枠組みを過剰にはみ出すものであった。
特にブルックナー自身が自信満々で書き上げた第8交響曲は彼の弟子や彼の音楽仲間から大層不評で「演奏不可能」とこき下ろされた。弟子たちや音楽仲間はその過剰を「音楽的破綻」ととらえたのだろう。彼らはブルックナーに、楽曲がもっと一般大衆に分かりやすくなるように改訂を促したり、指揮者は演奏時に勝手に改変したりした。
それに加えて、初演時の聴衆の評判もよろしくなく、気弱で素直な田舎者気質のブルックナーはその度に意気消沈し、書き上げた数ある交響曲を片っ端から何度も繰り返し改訂していった。

そのため、彼の交響曲は少なくとも第1稿版、第2稿版、弟子が第1稿版と第2稿を折衷した「改訂版」や「ハース版」(ハースという人がブルックナーの本来の音楽性を想像して恣意的に改訂した)と4つの版がある。

更にそれらの楽譜を指揮者が個人的な好みで改変した演奏もレコードとしてたくさん残っている。それに加えて、以前のブログで言ったように、同じ楽譜であっても指揮者毎の楽譜解釈の違いがある。そのため、困ったことにブルックナー交響曲第8番だけでも、私は10数枚のレコードやCDを買ってしまった。どれだけお金をかけたことか!ついでに言うと、私が大学の頃に、交響曲第8番第1稿版の世界初録音のCDが発売され、その演奏に衝撃を受けた私は第2稿版との違いを確認したくて、第2稿版のスコアを買った(第1稿版のスコアは当時はまだ手に入らなかった)。いくらだったか忘れたが、レコードやCDよりもスコアのほうが高かった。もうええっちゅーに!

ブルックナーの版問題は更に続く。
最晩年のブルックナーは自身の最後の交響曲とすべく第9番を「愛する神に捧ぐ」と題し、更にベートーヴェンの第9番へのオマージュとして同じニ短調で書き始め、第3楽章まで完成させた。第4楽章は「大フーガ」とし、大半の草稿まで書き終えたのだが、そこで、また旧作の完成度が気になり始め、旧作の改訂に取り掛かってしまった。その頃既に体調を崩し自分の死を予感していたブルックナーは、「第4楽章を完成出来なかった時は、自作で人気の高かった合唱曲「テ・デウム」を第4楽章として演奏してほしい」と書き残して、亡くなった。
以前は、コンサートで第9交響曲を演奏するときは、その通りに第4楽章として「テ・デウム」を演奏することが多かったのだが、2000年代に入って、第4楽章の全体的な草稿の多くが発見、収集され、第4楽章の補筆復元・完成の作業が始まった。これらにまたたくさんの版がある。確かに第4楽章に「テ・デウム」が演奏されるのは第9番の曲調に合わないし、「大フーガ」という私個人の期待感もあって、第4楽章の新しい完成版のCDが出るたびに買っていたが、もう諦めた。これはレコード会社の戦略なのかも。キリないし。

ということで、ブルックナーの交響曲のレコード、CDを、私は阿保のようにたくさん買ったのであるが、たくさんの交響曲の改訂に心血を注いだブルックナーには申し訳ないないが、私はやはり第1稿が好きなのである。構造的形式的な枠組みをはみ出した過剰な部分にブルックナーの自然への畏敬や神への祈りが滲み、溢れ出ているように感じるからである。
自然や神は人間の考える構造的形式的な人知、能力を超える。作曲とは自分の中に広がり流れる音楽を楽譜という形式に落とし込む作業である、と以前ブログで書いたが、ブルックナー自身がどんなに自分の音楽を意識的に構造や形式にはめ込もうとしても、そこからはみ出してくるもの、そこにブルックナーの真髄が顕現するように感じる。

ブルックナー交響曲第8番第1稿版と第2稿版がどれだけ違うか。
例えばわかりやすいところでいくと、第4楽章の最終部分。フルートでカッコウのさえずりのようなフレーズが第1稿版では強調され延々とリフレインされる。しかし第2稿では主旋律の陰で控えめに鳴り、程なく終わる。
また最後の終止部。第1稿版は2声?の変終止(アーメン終止というのかな。ミサ曲の最後に「アーメン」と歌うように浮いた感じで終わる方法)ぽく余韻を残して終わるが、第2稿版はユニゾンのトゥッティで♫ミーレードッ!と完全終止で終わる。

聴いて頂いたほうが早いので、以下の第2稿版と第1稿版の最終部分を添付する。最初のほうが第2稿版です。

※お詫び

youtubeの音源、最終部分を開始時間指定をしましたが、スマホでは開始時間指定が崩れているようです。

 

まずは、通常演奏されるブルックナー交響曲第8番第4楽章第2稿版から最終部分:18:37から(ジョージ・セル指揮)

 

 

1980年代に発表されたブルックナー交響曲第8番第4楽章第1稿版から最終部分:1:12:09から(エリアフ・インバル指揮)

 

全体的に第1稿版はブルックナーが表現したい多様なニュアンスに溢れていて、ブルックナーの田舎者らしい素朴な裸の精神が感じられる。それに対し第2稿版は綺麗にまとめ上げられ、悪く言うと、構造的、形式的に辻褄を合わせたように感じられるが、劇的(ブルックナーは文学を知らないのであるが)で完成度は高いとわかる。

どちらもそれぞれの良さがあり好きなのだが、やはり私は第1稿版が好きだな。

 

以上おわりです。

昨年末から長い時間がかかった割には、どーでもいい自己満な投稿になってすみません。苦笑