私は日記を書いたことがない。読書感想文も苦手だ。義務で文章を書くことにはとても抵抗があった。

しかし、心の中に何かモヤモヤしたものがあるとき、言葉にして、文字にして、形にする習慣が子供の時からあった。

それは詩のようなものであったり、エッセイのようなものであったり、小説のようなものであったり形式は様々で定まりはなかった。ただ本格的な詩、本格的なエッセイ、本格的な小説を書いたことはない。そうすると義務になるから。

中学の頃から書いていたから、残っていたらかなりの分量になったであろうが、全部書いては捨て、書いては捨てた。

私は文字通り「つれづれなる儘」に書いた。その意味では、ブロクというフレームは私の日常生活に向いているのかもしれない。ブログというものが昔からあったら、それらのものが残っていたかもしれない。いや、ブログも一度全てリセットしたことがあるから、やはり昔からブログがあったとしても、私は何度もリセットしていただろう。

「人生は、ゲームのようにはリセット出来ない」とはよく言われることだが、私は割と何度もリセットしてきた。むしろひたすらリセットし続けることがこれまでの私の人生であったとも言える。

 

私がかつて結婚式をした時は、やけに疲れて文章を書かなかった。だから当然、その時の文章はない。

私には二人の息子がいて、二人の子供が生まれた日、私は父親の義務として詩を書いた。

それは私の父が、私の生まれた日に私に向けて詩を書いていたからだ。私はそれを真似た。父親はそうするものだと思っていた。

私は自分の父親のようにはなりたくないという思いがすこぶる強く、徹底的に父の指向性の逆を選択して生きてきたのだが、ふと気づくと自分の父親と同じようなことをしていることに気づく。同じような指向性を持っていることに驚く。子供が生まれた後は、愈々自分の父親に似てきて嫌になる。

一番目の子供が生まれた日、宇宙飛行士の若田光一さんがスペースシャトルに乗って宇宙に飛び立った。その時の地球の映像が美しくて、その子の名前と詩を考えた。

これを詩というには形式がないし、リズムも韻も踏んでないので散文詩とでも言おうか。

この子は、いともたやすく生まれてきて、いともたやすく成長し、いともたやすく大人になった。今21歳。大学3年で建築学を学んでいる。この先もいともたやすく人生を送ってくれたらよいのだが、人生はそんなに甘くないだろう。しかし、どうだろう。彼は私が全力をかけて乗り越えてきたものをいともたやすく乗り越えている。乗り越えているという表現は適当ではない。彼は乗り越えようというような特別な意志を持たずに乗り越えている。彼に言わせれば、「乗り越える」という意志を持つこと自体が邪心と言うことか。確かにそうだ。そうかもしれない。

 

彼が生まれた時に私が書いた詩をここに記す。彼が生まれた時にはwindows95 という簡単で汎用性高いPCがあったので、私はそれをWORDで作成し、今ままで持ってきた。時が来たら、彼に渡そうと思っていたから。渡さなければならないと思っていたから。

ここに来て、WindowsもOSがどんどんバージョンアップされ、古いデータが上手く開かないという現象が生じてきた。この詩を書いたWORDも開かなくなった。何とかテキストデータの救い出し、新しいヴァージョンのWORDに流し込んだが、それもやがて古くなるのだろう。であれば、万が一のことも考え、この詩をHTML言語によってここに書いておこうと思った。

以前、このブログをやっていた時は、自分でHTML言語でプログラミングして、文字を入力したり、画像を取り込んだりして、グラフィック・デザインにかなり凝ったものだが、今はもう出来ない。数年前まで出来たことが今は出来なくなった。私もジジイになったということだ。嗚呼、、、。

話は逸れるが、私は大学2年までコンピュータ言語の勉強をしていた。「FORTRAN」という科学データ計算用の言語だ。当時はPCなどなく、みんな大学にあるスーパーコンピュータのそばまで行って、それにつながった端末(PC)からそれにアクセスした。まだPCなど誰もが持っていない時代だったから、毎日徹夜で大学ノートに何ページにも渡ってプログラムを手書きし、翌朝、大学のスーパーコンピュータにアクセスして、端末に徹夜で書いたプログラムを書き写しラン。しかし必ずバグが発生し、走らない。今ではバクをPC上で自動的に表示してくれるそうだが、当時は自力でバグ探しをしなければならなかった。バグを見つけ、修正し、ラン!え?また?この繰り返しだった。その苦痛をスーパーコンピュータにつながれたて味わっていることに嫌気がさした。吐き気がした。一生スーパーコンピュータにつながれて生きていくことに我慢ならなかった。絶望した。それで「文転」して、哲学専攻に変えた。就職などせず、気ままに「ノマド」=遊牧民として生きていこうと思った。

話を戻そう。

以下、その詩だ。(※息子の名は〇〇ということで伏せる。)

 

 

私の祝福と祈りの歌~○○へ

○○よ

お前のいまだ見えない瞳から

海は今でも碧いか

空は今でも碧いか

この地球は今でも碧く輝いて見えるているか

遠い昔

この日本という国が消えてしまうほどの破壊的な戦争があったんだ

その復興が急速に進み始めた頃、お前の父、私は生まれた

その時は

いまだ海は碧かったんだ

いまだ空は碧かったんだ

いまだ地球は碧く輝いて見えたんだ

私たちは、いわば「希望」と共に生まれ、育ったんだ

お前の父が幼い頃

 

アメリカの宇宙船が月に降り立った

 

宇宙飛行士は言った

 

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である

 (That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.)

 

その時の映像をお前の父は真夜中に眠りから起こされ、寝ぼけ眼で見た

 

地球は碧く輝いて見えたんだ

 

その時のあの瞬間のことは今でも忘れ得ない

 

お前の父、幼い私は地球があまりにきれいだったから泣いた

 

そして私の父に殴られた

 

その時のあの瞬間の痛みも今も忘れ得ない

 

あの時から十数年

一度は壊滅した日本は目覚しく復興した。世界も大きく発展した

そしてこの地球は私たちの欲望を満たすには余りに小さい星となった

尊大なる人類よ!

海が、空が、

人類の手によって

絶望的に、着実に、破壊されていっているんだ

神よ、この地球を救いたまえ!

そして尊大なる人類に憐れみを!

○○よ

お前が生まれたこの日

この日もまた、一人の日本人宇宙飛行士が宇宙へ飛び立った

彼が送ってくる映像から、

この地球がいまだ碧く輝いているのが見えたんだ

海よ、いつまでも碧くあれ!

空よ、いつまでも碧くあれ!

地球よ、この宇宙でいつまでも碧く輝く生命の星であれ!

神よ、この地球を守りたまえ!

これが私の祈りだ

○○よ

お前のいまだ見えない瞳からは

私の語ることなど何もわからないだろう。

だから、おまえも過ちを犯すことがあるだろう

人類が、そして私自身が犯してきたように

しかし

やがて(それは随分と先のことだろう)お前の瞳がはっきりと見えるようになったとき

単純な真理に気づくのだ

人類はこの地球の子供であることに

○○よ、私の祈りよ

永遠に碧く輝け!

1996年1月11日

父、のん

 

 

自分の名前も本名からハンネにした。

彼が見たら笑うかな。

しかし以前閉鎖したブログを彼は読んでいた可能性がある。彼は恐るべき検索能力があり、世界中から情報を仕入れていた。

当時の私のブログは私の内面と直結していた。だから私はかなり赤裸々に本心を書いた。

私はブログの仲間に何度か「さようなら」と書いた。

すると必ずそのタイミングで彼は「パパ、大丈夫?」と聞いて来るのだった。

晩ご飯の時など、その前日私が書いた哲学者や文学者の話を持ち掛けてきた。

もし彼が私のブログのことを知っていたとしたら、本当に申し訳なあかった。そして私を見守っていてくれたことに感謝している。涙涙。

彼が赤ちゃんの頃から週末は2人で過ごした。次男が生まれれからは3人で過ごした。ゲーセンに行った。カラオケに行った。クワガタ採集に行った。特にクワガタ採集は楽しかったな。3人で一晩中たくさんの採集ポイントを回った。お墓の近くに採集ポイントがあるところがあり、そこに行った時、二人の息子がオシッコをちびってしまったことがあった。おい!おまえら!車のシートに座るなよ!立ってろ!無茶言うオヤジだったな。
そして可愛いやつら。