息子が春休みに入り、それに合わせて私も少しずつ有休を取れるようにしていたので、時間の余裕=心の余裕も出てきました。
この本も読み終わってしばらく経ちますが、やっと記録する気になりました😓
先に書いておきますが、重いです。
すみません。
「機雷」
光岡明
📝太平洋戦争も後半になり、絶対国防圏が縮小しだして、敗戦色が濃くなってきた頃。海軍兵学校卒のエリートである梶井は、海防艦「大東」に乗り、船団護衛をしていた。海防艦は、本隊が移動している間、敵潜水艦の魚雷から守るのが役目である。移動し終えればまた別の隊の護衛。つまり、守るばかりで敵に攻撃はできない船なのである。姿の見えない潜水艦に向かってできることは、当たるかどうかわからない爆雷を海中に放り落とすことだけだ。
梶井はこのことを情けないと思っていた。だが、怪我により長期療養していたため、出世路線から外されたと感じている自分に、ふさわしいとも思っていた。戦いで活躍ができない。死ぬ時も、華々しく散ることはできない。
最後に乗ったインドシナからの輸送船団の護衛の際には、アメリカの爆撃機隊に襲われ船団は散り散りになる。だが「大東」はスコールの雨雲の下に隠れ、辛うじて本土へ戻る。
その後、梶井は敷設艦「常磐」に配属され、接触式機雷を対馬海峡に敷設していく。
ここでも、只々守るだけである。接触式機雷というのは、直接触れられなければ攻撃力にはならず、水中で眠っているのと同じだった。梶井は、この接触式機雷を、爆発することができない自分自身に重ねる。
そして次の配属は哨戒特務艇二五号。今度は、敵が撒いていった機雷を除去する、掃海の任務だった。担当する関門海峡には特に多く、最終的に4400以上の敵機雷があったという。
大きな艦ではなく小さな艇、しかも鉄製ではなく木製。機雷には接触式以外にも、磁気式(鉄に反応する)のものがあるからだ。これら特務艇は、もう終戦に近い頃には漁船を接収して使っていた。
木製の船で、ダミーの鉄鎖を引っ張り、安全な状態で触雷させる作業。しかしアメリカの機雷は、そう単純ではなかった。複数回の磁気反応が必要、かつ水圧式といって、船が通ったことを水圧で感知する。明らかな敵意を持っている、と梶井は感じた。
📝終戦後、軍は解散させられましたが、掃海隊は残りました。梶井達は、戦いではなく平和、安全な航行のために必要とされる立場になったのです。
戦争中は日々、あれだけ死を思っていたのに。終戦という大きなパラダイムシフトにより、梶井は生きることに目を向けるようになりました。
戦争における「美しい死」などあるのでしょうか。
ほとんどの人は、できれば家族に見守られ静かに息を引き取るような、安らかな死の方が良いと思っているはずです。苦しくむごたらしい死は、できるだけ避けたい。
その、死への恐怖を覆う美しい言葉を「大義」といいます。
今世界で起こっている争い事にも、「大義」が持ち出されているのだとすれば、人類は過去の世界大戦でなにも学んでいないことになります。
これ以上の人命が失われないよう、一日も早く平和的解決がされることを望みます。
🗓3/12 読了