のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~ -19ページ目

のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 

 

 

  神秘体験で得た

      私の「思い」とまったく同じ

 

 

     医師の矢作直樹先生が10年前に出版された

    『魂と肉体ゆくえ』は、魂や霊性について

    非常にわかりやすく書かれており、今も読み返し

    ては、現実世界に沈みがちな「自分」を覚醒して

    います。

 

 2002年秋、私の身の上に突如起きた神秘体験!――。それが「真我実現」であった、ということを知るのですが、その後の人生において私の最大の関心事となりました。なぜなら、人間は肉体を持つ一方で、「霊性とともにある」ことを確信したからです。

 

 そして十数年後、『魂と肉体ゆくえ』と出会うのですが、そこに書かれていたことは、私が神秘体験で得た内容と一から十まで、すべて合致していました。

 

 先生が「神秘体験」されたかどうか――は、私がこれまでに読んだ先生の著書からは“発見”出来なかったのですが、「私の神秘体験」で得た思いとまったく同じだとすると、先生はどうしてそのような思いに至られたのか、非常に興味があります。

 

 医師や看護師という職業は、「死を迎える」人のそばにいることが多いわけです。したがって、そのような患者の「臨死体験」を見たり聞いたりすることから、主務とする科学的な医療行為のほかに、不思議とされる「神秘」や「霊性」について考察する場面も多いはずです。

 

 はたして、先生はどうだったのか、たいへん興味があります。

 

 

               +

 

 

 ではここで、先生の著書から、私が「その通り」「よくぞ言ってくださった」と思う言葉をピックアップして、ここに記録します。

 

 

 

           <出典>             

 

      『魂と肉体のゆくえ』―与えられた命を生きる―

                 矢作直樹 著

             きずな出版(2013年4月15日第1刷発行)   ――――――――――――――――――――――――――――――

● いま、ここで生きている一人ひとりに魂が宿っています。逆にいえば、魂がそのからだにいるからこそ、その肉体は生きているといえるのです。

 命が誕生するというのは、そこに魂が宿ることをいい、私たちが「死」と呼んでいるのは、魂がその肉体から去ることを意味します。

 つまり、もしもあなたの魂が、あなたのからだから去ってしまえば、その瞬間にあなたという人間は死んでしまうわけです。

 でも、霊魂は死にません。また次の肉体に入り込んで、新たな人生をスタートさせます。その意味で、たとえ今生(現世)の寿命が尽きたとして、霊魂はまた次の人生で生き続けるのです。(p22)

 

● 前世を知ることというのは特別なことのようですが、じつは、昔のヨガの聖人たちというのは、それを当たり前にしていました。霊魂は、出たり入ったりが自由だから、いつでもその前世の記憶を呼び覚ますことができたわけです。

 現世を生きて間もない子どもたちが、前世の記憶をもつというのは、考えてみれば当然のことで、それほど不思議に思うことではないのかもしれません。(p28)

 

● 死は、肉体から見れば「去ること」ですが、霊体から見れば、それは「戻ること」です。私たちが死を迎えるというのは、この肉体から抜けて、もとの世界に戻るということです。(p46)

 

● 死は、その人の終わりかといえば、そうではありません。

 霊魂は永遠だということを知っている人と、そうでない人では、死の受けとめ方は、まったくといっていいほど違うでしょう。

 たとえば、人が亡くなって寂しいというのは、よくわかりますが、霊魂が永遠であると思えれば受けとめ方は前向きになるでしょう。 

 アメリカン・インディアンや、オーストラリア先住民のアボリジニは、かなりの人が、たとえば、「彼は明日、亡くなる」ということがわかるそうです。

 でも、死は、彼らにとって、一つの現象でしかありません。

 人が死んで寂しいというのは、もうその人とは交流できなくなると思うからではないでしょうか。けれども、ある人たちにとって、死はイコール別れではないわけです。(p47)

 

● 人生は修行だという人がいますが、それはその通りで、私たちは全員が、なにかを学ぶために、いまここにいるというわけです。(p50)

 

● 私たちになぜ寿命が与えられているかといえば、ここで意識の進化、つまり制約の多い生身のからだをもって修行し、魂を磨くことを図るためです。(p55)

 

● 怒り・妬(ねた)み・怨(うら)みなどの感情は何かといえば、「不調和」でしょう。

 たとえば神人合一(「普遍意識」とつながった)時に感じるのは、「至福感」「」といわれるものです。

 なお、「普遍意識」あるいは普遍的意識とは、場合によって様々に表現される「神」について、我々が深層意識の中で感得できるすべてがつながった一つの意識としての面からとらえた表現です。古くはインドのヴェーダにこの表現が使われています。(p56)

 

● 魂というのは、何度も生まれ変わっていくなかで進化していくものです。……生かしていただいていることに感謝することを心がけて、光に包まれているイメージをもっていればよいと思います。(p58)

 

● 「人は善なり」 これは孟子の言葉ですが、善を知るには、悪をもって相対化しないと、そのことに気づけないということがあります。その意味で、人間は、善と悪の両方をもっています。当たり前のことですが、つぶし合う関係ではいけないのです。善は、お互いに高め合う方向にしか存在しないのです。(p61)

 

● 禅や瞑想の究極は、無我の境地に達することです。無我とは仏教用語で、無心であること、我欲がないことをさしますが、何も考えずに、自分にできること、与えられたことをやればいい、ということだと私は思っています。(p65)

 

● 幸せというものの究極は、「神人合一」の境地になることだと思います。神と人との合一とは、自分がすべてのものとつながることだというふうに、私は理解しています。「私たちは唯一の存在だ」というとき、それぞれが独立しているようなイメージでとらえる人がいますが、それは錯覚なんです。個というのは、別々に存在しているのではなく、すべてつながっていると考えます。……たぶん個というのは、この現象界(人間の感覚によって知覚できる世界)で、肉体をもって修行するためのかたちでしかないと思うのです。(p66)

 

● いま私たちが生きている世界も、死んで行く世界も、その波動、振動数が違うだけで、じつは同じ「ここ」に存在しています。(p70)

 

● ニールス・ボーア、エルヴィン・シュレディンガー、ヴェルナー・ハイゼンベルクといった量子力学の駘蕩といわれている科学者たちは、インド哲学の源流であるヴェーダ哲学に傾倒していました。そのなかで説かれている「梵我一如」をはじめとする原理が、量子力学を考える上で影響を受けたと述べられています。「梵」とは宇宙を支配する原理を意味します。「我」は個人を支配する原理で、この「梵」と「我」が同一であることを知ることにより、永遠の至福に達すると考えられています。

 そんなことはあり得ない、と決めつけるのは、自分の可能性を狭めてしまうようなものです。(p71) <りんどう注=その通り。現実に私はそのことを「神秘体験」で経験したのです>

 

● 肉体が死んでも、魂は生き続けます。では、その魂はどこに行くのか、懐かしい家であるはずのその場所はどこにあるかといえば、じつは、いまに、この世界と同じ場所にあるようです。……その世界は目の前にあるというより、私たちのいる世界と重なっていると言い換えてもいいと思います。最新物理学の超紐理論(スーパーストリング理論)では、物質を構成している素粒子は、すべての空間に存在する極微の紐または膜の振動(ヴァイブレーション)として表されています。そして世界は、紐または膜振動数の違いにより私たちが見ている物質的世界からより振動数の高い目に見えない高い次元の世界までが重なって存在している、と考えられています。……このような科学的説明と、実際のさまざまな霊的事実とを突き合わせると、この世とあの世(より高次の見えない世界)は、別に存在しているのではなく、私たちの世界から見ると同じ場所にあるのでしょう。(p73)

 

● 「葬式というものは肉体のためのものです。それをどんな形式で行っても、楽しからざるものになってしまうものです。ですから私は、いまや無用のものとなった肉体を墓所に送るためのカラ騒ぎや儀式は一切なしにしたいのです。葬るだけでよいのです。私はいつまでもあなた方と一緒にいるのですから、“さようなら”を言う必要はありません」(ハリー・エドワーズ著『霊的治療の解明』より)(p77)

 

● 神というのはすべてであり、我々のなかに神がいるし、神のなかに我々がいるわけです。(p90)

 

● 私たちは、ずっと神とつながっています。そのことを、「宇宙とつながっている」というふうに表現する人もいます。……「宇宙とつながる」というときに、宇宙とは何か、といえば、それは神です。つまり、神人合一――神と人との合一とは、自分がすべてのものとつながる、ということです。(p92)

 

● 優れた科学者や芸術家などが、普遍意識とつながることによって垣間見ることができる新たな事実があります。つまり、この世界には素晴らしいことがたくさんあると思います。それを私たちは、まだ知らないだけなのです。(p94)

 

● 霊魂の使命は、意識の進化だと考えれば、この世界で何をチャレンジしたか、チャレンジした結果がどうであったか、ということで、次の課題が決まる、というわけです。(p145)

 

● 人の命はどこから来て、どこに還るのかといえば、この世も、あの世も、全部重なって、ここにあるわけです。じつは「重なっている」という表現は正しくなくて、同じ場所にあっても、波動は違います。ものの波動というのは、それが高くなればなるほど見えなくなります。そのうえ、かたちも自由に変わっていきます。この物質界では、世界は固体ですが、波動が高くなると、それさえも意志の力で変えられます。その意味では、遠くから来たわけでもないし、遠くへ行くわけでもない。すべては、ここにある。この物質界で解決していく課題が、カルマだといえます。(p150)

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                       (注 カラー文字=のむらりんどう)

 

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 結論として――矢作先生は、人間が纏う「霊魂や霊性」は、われわれすべての人間の裡にあり、特別なものではない、と示唆されています。神秘体験で「真我(神我)の意識」に目覚めた私の思いは、『魂と肉体のゆくえ』に書かれている先生の言葉とまったく同じなのです。

 

 過去に一度もお会いしたこともない人と「人生とは何か」についての思いが全く同じだということは、そこに書かれた内容は個人の主観ではなく、客観であると考えます。つまり、地球上に棲む「人間の主観」を超えた「宇宙の客観」といえるでしょう

 

 この著書の意味は重い。

 

 

 

                       (記 2022.10.11 令和4)