「あんがい気持ちよかった」
あなたもやはり、そう感じましたか!
年が改まって、きょうは正月2日――
マンションの上階から外を見ると、通りを行く人はちらほら。テレビは朝から、学生が走る「箱根駅伝」の往路競走を追い続けています。駒沢大学、中央大学、青山学院……。さて、あすの復路はどうなるか。
遅い目覚めだったので昼前に、おせち料理をいただきました。若い頃にくらべ、お酒は少々といった塩梅です。その後いつもは新聞を読み始めるのですが、けさは休刊日なので仕方なく、書斎に入りました。
本の続きを読もうと、『死は存在しない』(田坂広志著)を脇に置いたのですが、(無意識に)年末に整理をして机の向こうに並べていた新聞の切り抜き帳を取っていました。パラパラとめくると、昨年6月の朝日新聞・朝刊1面「折々のことば」に目がとまったのです。
内容は、いわゆる“臨死体験”を経た人の素直な気持ちが紹介されていました。
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(2022年6月25日・朝日新聞朝刊1面から引用します)
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折々のことば:2419 鷲田清一
自分がこの世にいなかった世界は、
あんがい気持ちよかった。
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検診中に「一過性全健忘」を起こし、数時間後に気がついた
時には、あの世から戻ったような気がした。死ぬとは「わたし
と思い込んでいるちっぽけなあぶくがプチンとはじけるだけ」
のことかと、俳人は思った。死が「わたし」という幻の解消だ
としたら、人は「死ねばこの世になる」ということ。ならばそれ
がうれしくなるよう生きたいと。文芸評論集『渾沌(こんとん)
の恋人(ラマン)』から。
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そうですか? 恩田さん、あなたもそう感じたのですね。
俳人で文芸評論家の恩田さんの体験――。「臨死体験」は、この世における「わたし」という幻想からの解消を誘うものであるのなら、この世で悩み苦しむことの虚しさ(むなしさ)を知る絶好の機会なのでしょう。
関連して、哲学者・池田晶子は著書『残酷人生論』のなかで、こう書き記しています。
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物質を物質と考えているのが精神であるのなら、われらはことの
始めより精神以外のものではなかったはずである。ならば物質を物
質と信じないような精神が、精神を精神と憩っていられるはずもない。
肉体ではなく、また精神一般をも超えてゆこうとするあなたの「私」、とは誰か。……己の全存在によって全・存在を問い詰めてみよ。他の誰かではないあなたが死ぬということを、あなたはうまく考えられるか。そう、「無」。絶対無、何もない、死ねば無になる、それが恐いと人は言う。しかし、考えることのできない「無」を、なぜ恐れることができるのか。
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「人は死ねばこの世になる」という――
いやはや、大いなる諧謔というべきか。
私は、私自身の「神秘体験」で、物質と精神(感情)の逆転現象を体験しています。
ですから、<「人は死ねばこの世になる」>というフレーズは素直に聞くことが出来ます。さらに「物質と精神」はたがいに独立したものではなく、混沌としている、ということも肌で感じるのです。
「死んで花実が咲くものか」
ということわざがありますね。
いやはや、これも大いなる反語でしょう。
そう、それですよ。
(記 2023.1.2 令和5)