哲学者・池田晶子はこう言っています。
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人が自分の個性を知るのは、これは完全に逆説になる、自分と
いうものが「ない」と知ることによってである。自分というもの
が「ない」と知ることによってこそ、人間は個性的な人になる。
こうとしかできない自分を知る。ではどうすればいいのかと問わ
れれば、これは一言、「一度死ね」
死なないことには、生きられない。自分なんてものが「ある」
と思っているから、人はいつまでもそんなものを探すことになる。
しかし、そんなものは「ない」、死んで「ない」と思うなら、探
し回る道理もなくなる。いまここに居ることが全てなのだと知る
はずだ。
『知ることより考えること』
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至言ですね。つい先頃までよく言われた「自分探し」とか
「自己実現」といったテーマが褪せてしまいそう。
ここで言われる「一度死ね」というのは、肉体とともに在る「自我意識」を捨てよ、ということでしょう。ほんとに死ねば、この世ではそれを確かめるすべは失われてしまいますが…。
私は神秘体験(光体験)によって、自己の存在を意識する「自我意識」とは別に、肉体を離れた「真我意識」を“感得”しました。そこで理解したことは、この世を去れば「自我意識」は消えて、宇宙に実在する「真我意識」を意識するようになる、ということです。
しかし、それを証明することは不可能です。なぜなら、この世(幻想の世界)においては人間の脳で生まれる意識は素粒子より小さな物質で、「宇宙意識」を意識することが出来ないからです。
私が神秘体験で「至高・覚醒状態」にあったとき、私の思いはこうでした。
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私というのは、この地球上(現象世界)にいる人の形をした
肉体の塊である。が、本当の「私」は肉体を持った塊ではなく、
宇宙に存在するあらゆるものを包含した<意識>が本当の私で
ある。
(§神秘体験(3) それは至高・覚醒状態の神秘体験だった!)から
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この思いは、池田晶子の思考と全く同じだと考えています。
地球上(現象世界)に存在する人の形をした肉体から派生する「自分」という意識は、「ある」ようで、じつは「ない」のです。ですから、たとえば「苦」についても悩むことはありません。彼女が説く「いまここに在る」が全てなのですから。
それを知ることによって、この世は楽に生きられます。覚醒体験いらい、かなりの時間がたちました。私自身、気持ち的には実に「楽」な日々を送っています。煩悩が生じれば、「距離」をつくると、たちまちそれは消え去って往きます。
といっても日頃は、目の前に生起する現象に、あれやこれやとコミットしています(たとえば、このブログを書くこともそのひとつです)。「諸行無常」を考えれば、無駄な行為なのかもしれませんが、案外、そうでもないのです。前にも書きましたが、身近にある山川草木を眺め、大自然の空や海などに包まれる時、“この世は極楽浄土だ”と思うことが実に多くなっているのです。
歳のせいかもしれませんが、「この世」と「あの世」を往き来している自身の意識を“観望”していると、楽しくてしようがありません。
たぶん、あの世のスウェデンボルグも同じ思いをしているはずです。
(記 2021.6.11 令和3)