きのうの朝日新聞朝刊に「企業の現預金 最多211兆円」という記事が載りました。(2017年11月12日、大阪本社版)
(引用します)
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企業の現預金 最多211兆円 昨年度末 人件費は横ばい
企業が抱える現金と預金が、2016年度末に211兆円と過去最高にふくれあがっている。アベノミクス前(11年度末)と比べ3割(48兆円)増えた。人件費はほぼ横ばいで、企業の空前の利益が働き手に回らない構図が鮮明となった。
財務省の法人企業統計調査(金融・保険除く)のデータを分析した。
16年度の純利益は、5年前の2.6倍の50兆円で、バブル最盛期の1989年度(18兆円)を大きく超える。円安で輸出企業を中心に業績が伸び、4年連続で過去最高を記録した。
巨額のもうけは賃金や設備投資増に回らず、現預金などに向かっている。現預金は、08年のリーマン・ショックから増え始めた。08年度末からの5年間の増加額は年平均6兆円だが、アベノミクスによる円安を受け好業績に沸いた13年度末からの3年間は年平均12兆円と2倍に加速している。
一方、人件費は5年前から1%増の202兆円にとどまり、ピークだった98年度(204兆円)を下回っている。
三菱UFJリサーチ&コンサルティングの土志田るり子研究員は「企業の好業績が従業員に還元されない。これが日本の経済成長が低迷する原因になっている」と指摘する。
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ほそぼそと老後を送る年金生活者にとっては、いったい「どこの国のことか」と思ってしまいます。イメージすることすら困難な数字です。
いつの頃からか、どこもかしこも日本の大企業は「~ホールディングス」いう名前になってグループの子会社を“増産”し、税金を抑えることばかりに“知恵”をしぼる集団と化してしまいました。
戦後の疲弊した日本社会に、新しい企業がつぎつぎと生まれたのはわずか50年ばかり前のことです。松下電器、東芝、日立、シャープ…といった家電関連の会社から始まって、日本は立ちあがってきたのです。しっかりと日本に税金を納めて…。それを参考にしようと、“後進国”だった中国の鄧小平も松下幸之助さんに“よろしく”と頭を下げ、見習いにきたのです。
東西冷戦が終結しベルリンの壁が崩壊しました。新しい枠組みの時代に入ったのです。で、“ジャパン・アズ・ナンバーワン”と呼ばれた「日本の繁栄」も、グローバル化した世界経済はそれを許さなくなりました。しかし、日本のトヨタ、日産、マツダ…といった自動車会社は、技術と知恵を結集してつぎつぎに新車をつくり製品化していったのです。やがてクルマを輸出しすぎた日本は、アメリカをはじめ他国から非難の矢面に立たされるも、現地生産などの方法を取り入れてなんとかそれをかわしてきたのです。
そして、「通信の時代」に入りました。ソフトバンクの時代です。ところが、儲かったカネに見合う税金を納めていないのです。他の大企業もしかり。それが“ホールディングスの壁”です。“バカの壁”というのがありましたが、笑ってはいられません。
いまや企業は、国土を超えて“宇宙”に存在するようになったのです。これがグローバル経済の実態です。土地・人民付きの国には税金を納めなければなりませんが、“宇宙”から地球に降りるハシゴ代だけの税金をその国に納めておけば、あとは税金のかからない“宇宙”にカネを置いておけばいいのです。だれも、それには手をつけられません。
そして、儲けすぎたカネがこの数字です。
しかし、この数字が地球上の国民のためにどれだけ使われているのでしょうか。先日からの報道では、自動車会社の“検査の手抜き”、つまり「新車検査を無資格者に行わせていた」ことが大問題となっています。日産の場合、それはカルロス・ゴーン会長がCEO時代に行った「経営方針」に誤りがあったとの声が出ているのです。姑息な方法で儲けを出していたのです。このていたらくは、先のフォルクスワーゲンと同様です。人倫は見られません。「安全」を最も重視しなければならない業界であるにもかかわらず。
そんなとき。我が国の首相は経済界に「3000億円」の拠出金を頼み込みました。「保育の受け皿確保のため」というのですが、その行為の当否を自民党の同僚である小泉進次郎氏も「これはおかしい。党内の議論もなく経済界に直接頼むとは…」と言っています。そうです。それなら、企業に相応の税金をかけて徴収し、しがらみのないカネで施策すべきでしょう。
企業は、次代のために預金をしておくことは必要です。しかし、その額はあまりにも莫大です。それだけの余裕があるのなら、どこかの会社がやっている“利益還元祭”でもやって、従業員や国民に還元すべきです。
やがてAIの時代がきます。労働者という働き手の仕事を奪うのは企業の「AIロボット」です。そして、最後に残るのは「会社」と「企業家」と「ロボット」のみで、「国民」はわずかなカネを抱えて飢え死にする、というチャプリンのような映画の世界が来ないともいえません。
それぞれが別々の肉体を持ち、「自我」という別々の思想を持つわれわれは、企業家であっても政治家であっても国民であっても、常に「他人を思いやる」という心情がなければなりません。でなければ、いくらモノをつくっても、いくら人のために政治をするといっても、「仏作って魂入れず」になってしまいます。
(記 2017.11.13 平成29)