*本・文学・ことば(18) 『風の書評』 百目鬼恭三郎さんのこと | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 

 前回、丹羽宇一郎さんの『死ぬほど読書』を取り上げた折り、ふと百目鬼恭三郎(どうめき・きょうざぶろう)さんの『風の書評』(ダイヤモンド社)を思い出しました。

 

 本棚を見渡していると、ありました。巻末に<昭和55年11月13日 初版発行>とありますから、今から37年前(1980年)ということになります。そして、その3年後に『続 風の書評』が出ました。

 

 百目鬼さんは、すでに故人。1926年(大正15)北海道生まれで東京大学卒。元朝日新聞編集委員の文芸評論家です。歯に衣着せぬ百目鬼さんの批評は、対象となった人と“水火の争い”を呈することもありましたが、われわれとしてはたいへん勉強になったことは確かです。

 

 「もう、そんなになるかなぁ」と感慨深くページを追いました…。最初に出た『風の書評』は著者名を明かさず、<風著>で刊行されましたが、続編では<百目鬼恭三郎著>と実名が表記されています。

 

          では、『続 風の書評』の中から、そのひとつを紹介します。

 ………………………………………………………………………………

 馬場あき子『歌枕をたずねて』

 

 馬場あき子『歌枕をたずねて』(角川選書・880円)は、歌の名所紀行だが、例によってはなはだ杜撰であり、この著者にはものを書く厳しさが欠けているとしか思えない。

 

 「藤波の花はさかりになりにけり奈良の都を思ほすや君」の作者を家隆(正しくは大伴四縄(よつな)あるいは大伴家持)、「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」の作者を伊勢(正しくは伊勢大輔)、「むかし見し象(きさ)の小川を今みればいよいよ清くなりにけるかも」の作者を大伴家持(正しくは大伴旅人)としているなどは、不注意のミスだろうが、高名の歌人である著者としたら、最大級に恥ずべきことだ。

 

 また、十団子(とおだんご)を売っていた茶店が丸子の宿にあった(正しくは宇津ノ谷にあった)とか、『万葉集』に詠まれている子持山の山ふところに伊香保温泉がある(伊香保があるのは榛名山)とか、藤原実方の墓を見にいって、実方を殺したという伝説のある笠島の道祖神を「この近くにあったというが」と、いまもりっぱに存在しているのを知らずに帰ってきている、といったウロンな記述は、ものをいい加減にしか調べないことに由来しているようだ。

 

 こういう杜撰さをもとにしていては、いくらもっともらしく感慨にふけったところで、見当ちがいのことしか出て来ない。たとえば、浜名湖の弁天島から湖と海をながめて、昔の浜名の橋をしのんでもムダなのである。浜名の橋は、湖を隔ててずっと西の新居町を流れる浜名川にかかっていたのだから、弁天島から見えるはずはないのである。また、須磨の現光寺で「見渡せばながむれば見れば須磨の秋」という芭蕉の句碑をみて「芭蕉がこの地を訪れた時の眺望はどれほど広々とさびしく美しかったことだろう」などと書いているけれど、この句は延宝五年ごろ芭蕉が江戸にいて詠んだもので、芭蕉はまだ須磨に行ったことはないはずだから、実景とは何の関係もないのである。

 

 ついでにいうと、著者は、芭蕉の「須磨寺や吹かぬ笛聞く木下(こした)やみ」という句を、夜の句のように解しているらしいが、木下やみは、夏木立が茂って昼なおくらいさまをいう季語で、これは当然昼の句である。多摩川べりの梅の香に、川ざらしの布の白さを感じるという恣意も、同様の無知から出ている。布ざらしは夏の仕事なのだ。

           (昭和58年2月10日 初版発行 ダイヤモンド社)

 ………………………………………………………………………………

 

日本を代表する歌人の馬場さんも、形無しです。ここまで書かれたら、「ものを書くということは生易しいものではない。しっかり勉強しないと…」と思われるでしょう。私も若い頃は短歌に没頭していて、馬場さんとは全国短歌大会後の宴席でお会いしたことがあります。

 

馬場さんは、短歌結社「かりん」主宰、日本芸術院会員、文芸評論家、朝日歌壇選者という短歌界をリードする人です。ですから、これについて「反論」ないしは「ご指摘ありがとう」といった言葉を期待していたのですが、私が知る限りにおいてそれはなく、その後も淡々と「短歌雑誌」で仲間と興じられていました。そんなことにいちいち関わっていられないわ、ということだったのでしょうか。

 

後日、私が短歌の道を離れたのも、この一件が多少影響していたかもしれません。

 

 ただ、百目鬼さんの毀誉褒貶は有名ですし、また思い込みもはげしく、文壇、批評界、そしてまた朝日新聞社内においても、他人と衝突することが多かったようです。しかし、その「博覧強記」は群を抜いており、世評を差し引いても仕事は十分に評価できるものではなかったか、と思います。

 

 誰が何といっても、書評はおもしろかった。いい加減なことを書いていると、みんなコテンパンにやっつけられる。著者の学識や人柄を忖度することはなく、ただ「知識」の玄妙さを追い求めていたのです。当然、軍配は百目鬼さんに上がる。

 

ものを書きそれを万人に問うという行為は、まさに「血涙を覚悟すべし」ということを、百目鬼さんに学びました。

 

 これぞ、批評のプロだという醍醐味があったのです。

 

 

                      (記 2017.9.5 平成29