§ふたつの意識(2) 「自我意識」について 福田恆存のことば | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 
 

朝日新聞の朝刊1面『折々のことば』(2016127日)に、福田恆存の「自我意識について」が紹介されました。私が追究する「ふたつの意識」に関連するので、収録しておきたいと思います。

 

                    (全文を引用します)
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   折々のことば   鷲田清一選

 

 自我意識は、嫉妬とか憎悪とか、その他のあらゆる情念とおなじに、
 一種の生理的なしこりのようなものであります。

 
                      福田恆存

 

 だからマッサージか、カタルシス(浄化)が必要だ。このしこりを揉(も)みほぐし、消散させるところに芸術の役割があると、劇作家・評論家は言う。「こころ」は「凝る」と同根だという説もある。「ここる」とも言ったらしいが、「こころ」もこのように凝りやしこりだと考えると、少しばかり肩の荷が下りる。評論「藝術とは何か」から。

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 福田恆存は、自我意識というのは<嫉妬><憎悪>といった情念であり、<生理的なしこり>だと言います。それ故に、その<しこり>は、「揉みほぐして浄化しなければならない。そのために芸術はある」と。さらに加えて鷲田清一さんは、その<こり>は<こころ>と同じものだ、と解説されました。

 

 なるほど、芸術の役割は納得できます。しかし私が思うに、<こころ>は意識の発現であって、どうして身体的な現象に還元されるのか、よく解りません。

 

つまり、「自我意識」は人間が持つふたつの意識のうちのひとつで、光と影の「影」の部分なのです。<こころ>に発現する善と悪、平和と戦争、有情と非情……といった意識が「苦楽」の源泉となる一方で、それがまた詩や小説、賛歌や悲歌を生むのです。ひとたび人間としてこの世に生まれたら、この意識を抱えながら生きていかなければなりません。

 

 『喜びも悲しみも幾年月』という映画がありました。「自我意識」は夜の航海をつづける船乗りの意識です。闇雲に走っていては灯台を見つけることはできません。

 

正しい目的地に到達するには、もうひとつの意識があることを知る必要があります。それが「真我意識」です。それを知ることはすべての人にとって可能なのですが、ほとんどの人がそれを知らずにこの世を去って行きます。「真我意識」を知れば、「自我意識」をコントロールすることが出来ます。そして、「人間とは何か」を知るのです。

 

                        (記 2016.12.9 平成28