*本・文学・ことば(12) 村上春樹の「小説家とは…」 | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 

 

 朝日新聞の朝刊には、鷲田清一さん選の「折々のことば」が掲載されています。毎朝これを読むと、人間とは古今東西、じつにいろんなことを考えながらこの世を行き来してきた、いや現在も行き来しているということに感心しながら、「人間とは何か」ということを改めて思い知らされます。

 

 

                    そこで、最近刊行された村上春樹氏の本から。

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  小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である

 

                    村上春樹

 

 小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。ひとつの個人的なテーマがここにあります。小説家はそれを別の文脈に置き換えます。「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話をします。ところがその置き換えの中に不明瞭なところ、ファジーな部分があれば、またそれについて「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話が始まります。その「それは、たとえばこういうことなんですよ」というのがどこまでも延々と続いていくわけです。限りのないパラフレーズの連鎖です。開けても開けても、中からより小さな人形が出てくるロシアの人形みたいなものです。これほど効率の悪い、回りくどい作業はほかにあまりないんじゃないかという気さえします。最初のテーマがそのまんますんなりと、明確に知的に言語化できてしまえれば、「たとえば」というような置き換え作業はまったく不必要になってしまうわけですから。極端な言い方をするなら、「小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である」と定義できるかもしれません。

 

 しかし小説家に言わせれば、そういう不必要なところ、回りくどいところにこそ真実・真理がしっかり潜んでいるのだということになります。

                (『職業としての小説家』から)

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                    (記 2016.9.20 平成28