[パンフレットには、こう書かれています]
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本課題は従来、中世の歴史的神学論争の中で研究されてきた。日本では文献研究、イスラーム哲学の立場から主に論じられてきたが、イスラーム本来の伝統学の三つである信仰学、法学、倫理学の分野のうち「信仰学 (アキーダ)」の課題である。オマーンのイバード派にとっては教義の根幹で、現在もなお精緻な神学的考察が行われている。同時にこの課題は一神教、および仏教など来世の問題と共通性があり、今後日本で多くの学術的交流が期待できる分野である。
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アラビア語で話される講演者の内容を四戸潤弥・神学部神学研究科教授が通訳されたのですが、形而上学の内容を日本語に変換して伝えるのはなかなか大変のようでした。「神」といっても一神教と多神教では定義も概念も認識も異なり、聴講している各人の意識の中にストンと落ちていたのかどうか、疑問が残りました。
今回はイスラーム教を信奉する人たちが描く「神」についてです。したがって、アッラー、預言者ムハンマド、クルアーン、それにスンナ派、ハンバリー派、アシュアリー派、マートゥリーディー派、ザーヒル派、イバード派、ムゥタズィラ派、ジュハイミーヤ派、ザイディーヤ派、イマーミーヤ派……と、教派言葉が次々と出てきます。
そして、「神」に対する見解は教派によってバラバラなのです。
①来世でも現世でも神を見ることは可能
②来世でも現世でも神を見ることは不可能
③現世で神を見ることができる、しかし来世では不可能
④来世で神を見ることができる、しかし現世では不可能
具体的にはこんなことを言っています。
たとえば、現世で神を見る可能性の理性的根拠は、「存在の事実と被創造物の存在からの類推。全ての被創造物がお互いを見ることができるということは、創造者が存在していることであり創造者を見ることが可能」。しかし一方で、「被創造物がお互いを見ると主張する説は、不可視物がたくさんある事実と矛盾する(例:魂、知性、意識、理解、声、香り、刺激、電気など)。創造者と被創造物との関係に類推を適用してみると、創造者の属性と、被創造物の属性を考えると不可能と言える」。
このような見解はまさに神学論争となり、「メビウスの環」となってしまいます。人間の能力には限界があり、不可知論へと行き着かざるを得ません。当然でしょう。それが私たちの世界なのですから。
とくに、「神」対「人間」という一神教の二元論では、そのようになってしまいます。恐ろしいのは、それぞれの宗教で「神」の属性が異なるのです。人間の歴史ではそれが争いの種となってきました。ですから、われわれは一日も早く、宗教を超えて「神⇔人間」となる梵我一如(不二一元論)の世界、つまり「真我の実現」を希求しなければ、と私は考えます。
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最後に質疑応答がありました。
イスラーム教のスレイマン・ビン・アリー・ビン・アミール・アッシュエリー博士に、私は一神教ではなく、ウパニシャッドの「梵我一如」をどのように思われるか聞いてみたかったのですが、聴講者の挙手が多くて発言の機会が得られませんでした。残念!
そこで、質問者の内容を一部紹介します。
①他大学で研究中の40歳くらいの女性⇒「宇宙と天国の違いはなんでしょうか?」
②どこかの学生⇒「神は人間のような貌(かお)をしているのでしょうか?」
一瞬、「ここは小学校?」と私は思ったのですが、ひょっとして、すばらしい質問だったのかもしれません。