♦ニュースから(6) 教育者とは何か 「誤記録された万引き」で中学3年生が自殺  | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

  

 

 

 中学3年の男子生徒が昨年(2015年)12月に自殺しました。

 

 原因は、彼が通っていた広島県府中町立・府中緑ケ丘中学校の杜撰な資料管理にあったことが明らかになりました。それは学校側が、「他の生徒が万引きした」のを「この自殺した生徒がやった」と誤って電子データに記録してしまったからです。

 

彼が1年生だった2013年10月、被害店舗から通報を受けた教諭が、他の生徒の名字を生徒指導部の教諭に口頭で報告した際、生徒指導部の教諭が誤って彼の名字を電子データに記録したのです。

 

その後、データは修正されず、彼が3年生になった2年後の進路指導に使われ、「私立高校への推薦(専願受験)は出来ない」と告げられたのです。

 

 誤った記録がもとで窮し、みずからの状況を悲観して自殺した彼。連日、新聞やテレビで事実関係が大きく報道されています。過失というにはあまりにも無責任な学校側の管理に、私も憤りを隠せません。

 

 さて、今回のことについて、腑に落ちないことがひとつあります。大事なことなので、声を大にして言いたい。それは、中学校から高校に送られる資料のことです。

 

 いわゆる「内申書」「調査書」というものですが、今回の場合、「万引きの非行歴」が焦点になっています。結果的には、亡くなった生徒は潔白だったのですが、「万引き」というようなケースについても、内申書に記載するものなのか、はなはだ疑問を感じます。

 

 触法行為ということは理解しても、わざわざ「万引きの非行歴あり」ということを中学から高校に知らせる必要があるのか。これは人権問題ではないか、と考えてしまいます。おどろくべきことです。

 

 学校は警察ではありません。教育機関ではないですか。一人ひとりの素行について受け入れ先の高校側が知りたければ、独自に調べればいいことです。いや、調査すること自体、おかしい。したがって、中学校が「上申」する必要はないのです。高校側も「そんなことまで知らせてもらわなくても結構」というのが、教育者の姿勢であり矜持ではないですか。それがないのが、私は歯がゆい。

 

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 私が高校生だった時のことを紹介します。

 

 担任は50代の男性でした。3年の夏。クラスの一人が、クラス外の友人と一緒になって「事件」を起こしてしまいました。職員会議で「退学処分」になったのですが、担任は頑として「処分」を受け入れませんでした。職員会議で大演説をされたと聞きました。「『事件』については、人として、担任として謝罪する。しかし、私は教育者である。どんなことがあっても彼を守る。『事件』のことで彼を放校することはできない」。それ以後も、何度も開かれる職員会議で「退学処分」は覆りませんでしたが、担任は校長に何度も何度も「処分撤回」を直訴。私たち級友も生活指導の先生に直訴しました。最後に担任はこう言ったのです。「彼が卒業したら私は学校を去る。それまで私は彼とともにいる」

 

担任の強い思いが通じました。「処分」は撤回されたのです。謹慎していた彼はふたたび学校に戻ってきました。次の日から卒業の日まで、毎朝他の生徒より1時間早く登校し、校庭の整備をつづけたのです。

 

 ここまでして、生徒を守る先生を、私は後にも先にも見たことがありません。むろん、「事件」を起こしたことは許せないことです。彼は生涯、その罪を償わなければなりません。でも、担任の行動を見て、私たちは「教育者とは何か」「人と人との信頼とは」ということを学びました。

 

春4月。彼はぶじ、就職しました。それを見届けた先生も学校を去って行ったのです。

 

                    

                      (記 2016.3.10 平成28