*随想* 京都・深草に進駐軍がやって来た③ 人生、初めて見た本は『聖書』 | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 

 

 

 5歳の頃。私には嬉しいことがありました。

 近所の友だちと駐屯地の営門近くで遊んでいたとき、上品そうなおばさんが私たち5人に近づいてきました。そして、「みんなにこれをあげますから、大事にしてくださいね」と言って、一人ひとりに手渡してくれたのです。見ると、真っ赤な表紙の本でした。

 

 それは『聖書』でした。といっても、後でおとなに教えてもらったから分かったことで、『聖書』というものが何か、ということさえまだ知らない年齢です。文庫本より少し大きめで、パラパラッと中を見ると、漢字かなまじりの日本語がびっしり。英語も併記されていたかも。とても読める力はありません。それでも、活字がびっしり詰まった本など見たことがなかったので、私には“宝物”のように思えたのです。

 

どうしておばさんは、子どものわれわれにこんなものをくれるのだろう?

 

当時の私には、それが軍隊とともに異国へやってくる「布教」のひとつだとは、まだ知る由もなかったのです。

 

 おばさんが去ったあと、友だちは『聖書』を道端に放り投げて、神社のほうに駆けて行きました。

 

ひとり残された私は、捨てられた『聖書』を一冊ずつ拾い上げ、じっと表紙を眺めていました。どうしたわけか、嬉しくて嬉しくてたまりません。「本」というものに初めて出合い、自分の物になった瞬間でした。なぜ、こんなに嬉しいのか分からない。とにもかくにも心が満たされるようで、大事に大事に家に持ち帰ったのです。

 

時を経て、私がこれほど本好きなのは「前世」と関係があるのでは、といつも考えてしまいます。学者だったか、作家か、本屋か……それとも。「本を書いた人、あるいは本の中に出てくる過去の人たちとの交流」を、誰かが手助けしてくれているとしか思えないのです。

 

長じて――宗教関係の本はよく読んでいますが、キリスト教との関係は希薄です。信者になったわけでもなく、『聖書』の知識は常識の範囲です。ただ、どういうわけか、一神教にはなじめないのです。とくにキリスト教では、マタイ伝の「大宣教命令」にひっかかります。

 

ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、仏教も、そしてその他の新興宗教に至るまで、教祖といわれる人たちの教説にはいたく感じ入るのですが、それが組織として活動を始めたとたん、「教え」は私のなかで崩壊するのです。

 

それはこの世が「自我の世界」であるからで、「真我の世界」ではないからです。この世に全く同じ人間はいないのです。ほころびはそこから生まれてくるような気がします。

 

                           (記 2016.2.18 平成28