けさの朝日新聞「声」欄(2016年1月31日、大阪本社版)に、小学生の切実な訴えがありました。私たち大人は、真剣に考えなければならない問題です。みなさんはどう思われますか?
(記事を引用します)
…………………………………………………………………………………
公園では自由に遊びたいよ
ぼくは低学年のときによく公園で遊んでいました。でも最近は公園でめったに遊びません。それはボール遊びや迷惑行為を禁止する看板があり、大声を出したりすると公園を利用する大人の人に注意されることもあるからです。ぼくにとって公園はもはや駅や病院などの待合室みたいなものです。昔は公園で注意されることはなかったと母に聞いています。
担任の先生から、助け合うということは、助けてもらったら次にだれかを助けることだと習いました。だとしたら今の大人は子どものころ、当時の大人に遊び声がうるさくてもがまんしてもらったのに、大人になったらがまんせず、助け合いが出来ていないと思います。ぼくは友達と家で将棋ばかりしています。公園で自由にドッジボールを楽しみたいです。
…………………………………………………………………………………
吉城くん! 君の言う通りです。間違っているのは大人です。許してください。
では、なぜ、こんな世の中になってしまったのか。また、その間違った世の中を正していくにはどうすればいいのでしょうか。私、のむらりんどうが考えますので、吉城くんも考えてください。
吉城くんが、こんな思いをしなければならなくなった原因は、戦後の「自動車社会」の到来にあります。吉城くんの家には、自家用車がありますか? もしあれば、そのことが、家の外で遊びにくくしている原因のひとつであることを学んでください。
じつは、このブログのテーマである「★自動車と人権★① 道路は自動車だけのものでしょうか?」で、私は次のように書いています。
――――――――――――――――――――――――――――――――
子どもの頃のように、道路の真ん中をゆっくりと歩いてみたい。これが今の私の夢です。缶けりやチャンバラごっこをしたあの道に、今は子どもの姿がありません。家の外で遊べない子どもたちには、ほんとに申し訳ない気持ちでいっぱいです。
内村鑑三は、「自動車は人の心を蝕み、やがて日本を滅ぼす」と、まだ自動車が殆どなかった明治の頃に書いています。駐車場は寺や神社の境内にまで及びました。
道路は自動車だけのものでしょうか? 「自動車と人権」について考えます。
――――――――――――――――――――――――――――――――
吉城くんと全く同じ悩みです。
私が子どもの頃(昭和20年代)には、道路で缶けりやチャンバラごっこが出来たのです。いや、そこで遊ばなくても、家の周辺には空き地がいくらでもありました。もちろん、そこは誰かの土地ですが、そこに子どもたちが入って遊んでいても、誰ひとり文句を言う人はいませんでした。近所のお年寄りたちは、そこで遊んでいる僕たちを見て、目を細めて喜んでくれていました。
小学生だけでなく、中学生も高校生も一緒になってドッジボールやソフトボールの野球を楽しんでいました。女の子はゴム跳びのようなことをしていたのを思い出します。
今から振り返ると、モノは少なかったけど、大人も子どもも生き生きとしていました。周囲は静かで、空気も澄んでいました。そんな中で、子どもたちは大きな声をあげて遊んでいたのです。
子どもにとって、ほんとにいい時代でした。それが一転して、吉城くんたちのような思いをしなければならない社会になったのは、どうしてでしょうか? それがモータリゼーションといわれる自動車を利用する大衆化社会になったからです。みんなが自家用車というものを持って便利さだけを追求した結果、しっぺ返しとして「自分の首を絞める」ことになったのです。
自家用車を持とうとすると、自宅に自動車を格納する車庫が必要となります。しかし、「うさぎ小屋」と外国から揶揄された日本の家は狭くてとても車庫を用意することができません。そこで考えられたのが「貸し駐車場」だったのです。空き地を持っている人は、せっせと貸し駐車場づくりに邁進したのです。その結果、住宅の周辺はもとより、神社や寺の境内にまで駐車場が出来てしまったのです。今までほったらかしにしていた土地をちょっと整備するだけで、地主には「貸し料」が入ってくるのです。それまで穏やかだった地主の顔が、とつぜん守銭奴の顔に変化したのです。それ以来、日本人の性格が悪くなってしまいました。
子どものことを考えず、経済効果しか頭にないおとなの政策で、これらを推進してきた“政府と自動車産業のタッグ”はみごとに成功しました。愚かで従順な国民は「うさぎ小屋」に住みながら、われもわれもと自動車を買い漁ったのです。
その結果、われわれは多くのものを失い、未曽有の被害が立ち現れてきました。「排ガスによる環境汚染」「自動車事故による人命殺傷」「生活道路や生活空間の侵奪」「子どもの遊び場の消失」が最たるものです。
吉城くんの訴えは、「子どもの遊び場の消失」にあたります。それまで自由に使えた空き地がなくなって、ついに公園でしか遊べなくなり、そして今やその公園からさえも追放されようとしているのです。こんな理不尽なことを放っておいていいはずがありません。世界の恥です。
では、どうすれば良いのでしょう。未来をつくる子どもたちが家の外で遊べず、家の中で将棋を指したり、スマホをいじってばかりでは、立派な青少年が育つはずがありません。
私が考える解決策としては、地下深くに自動車道路や駐車場をつくり、トンネルの中を走らせるというのも一つの方法です。莫大な費用と時間がかかるでしょう。しかし、そうするしかありません。そうなれば、地上は緑あふれる楽園となるはずです。事故もなく、子どももそこで思いっきり遊べるようになります。
吉城くん! 今のような世の中の状態を「人権侵害の社会」といいます。まだ小学生でよく分からないと思うけれど、それをなくすために、こんどは君たちが将来に向かって最善の市街や道路を作りあげていってください。期待しています。
(記 2016.1.31 平成28)
