神秘体験(至高・覚醒体験)から13年。ここで少し、私自身の「意識の変化」について振り返ってみます。覚醒前と覚醒後では、行動にどのような変化があったか、ということになります。
まず、身近なことから
●偶像を拝まなくなった
日常の習慣として、家族と一緒に墓参りに出かけることがあります。
寺の門をくぐると、伽藍や霊園の正面には大きな仏像が安置されています。覚醒前の私は、その前でおもむろに手を合わせ頭を下げて拝んでいましたが、覚醒後はそのような行動はなくなりました。
仏像の顔を見やり、「やっ、こんにちは」と他人には聞こえないくらいの声をかけ、微笑みかけます。偶像である仏像や祖師と呼ばれる僧侶などの群像も同様で、拝むことはありません。
その他、旅行などでキリスト教会に入ることがあっても、イエスの像に微笑みかけるだけです。
それぞれに敬意をはらうことはあっても、主従の礼をとるような行動はなくなったのです。
●数珠など使わなくなった
親戚や友人などの葬儀や法事に出席することがあります。しかし、数珠などを持って行くことはなくなりました。いわゆる法具というものを忌避しようとする心がはたらき、用いることはなくなったのです。故人に対して合掌するときは、素手を合わせることが最もふかく哀悼を示し得ると思うようになったからです。これは頭で考えたのではなく、自然に私の意識がそうさせているのです。
喪服にしても同じです。黒一色の葬儀にはものすごく抵抗を感じるようになりました。黒は「死」を穢れとみる思想から生まれたのですが、「死」を穢れとはとても思えません。「死」は後生への出発点ですから。それまで、葬儀には当たり前のように黒色のモーニングを着用していましたが、今は紺やグレーの平服を着ると心が落ち着きます。
●仏壇は簡素になった
わが家の仏壇は世間一般の家庭に置かれているのと同じくらいの大きさでしたが、マンションタイプの小型のものに替えました。南洋材でつくられたとてもシンプルなものです。
仏壇の奥には、これまで「阿弥陀仏」が描かれている絵軸と、その両側に「親鸞」「蓮如」の肖像が描かれた絵軸の3枚が並んでいましたが、今は「阿弥陀仏」だけになりました。これも私の意識にのぼったイメージです。
ただ、この仏壇も家族と一緒に住んでいるから必要なものであって、私の意識には「仏壇」というものは既になくなっています。あの世に上った父母や養父母(義兄、姉)、先祖とは<瞑想>を通じて名前と顔を思い浮かべれば、それで十分思いは通じるわけです。
これらのほかにも色々とありますが、客観的にみれば、私のもうひとつの意識(真我)である「至高・宇宙意識」がそうさせているのだと思います。
(記 2015.7.14 平成27)