*私のこと(1) 泳げない私が、何キロでも泳げるようになった理由(わけ) | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 
  

            水泳は人生の“友”です

 30代の
後半まで、私は水面から顔を出したままの状態で10メートルくらいしか泳げませんでした。ところが、たまたま習うことになった水泳教室で、指導者だったS君というアルバイトの大学生が、泳げない理由(わけ)を見つけてくれたのです。もし、S君と出会わなかったら、私は一生泳げなかったでしょう。

 これから、その理由を開陳しますが、スポーツに限らず仕事でも趣味でも、いかに「基礎教育」が重要か、おろそかにしてはいけない、ということを身をもって知ったのです。

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 S君「のむらさん! 顔を水の中に沈めているとき、鼻から

    息を吐いていますか?」

  「えっ、何ですか、それって?」

 S君「顔を水面に上げたとき、大きく口で息を吸って、次に

    顔を水の中に沈めたら、徐々に鼻から息を吐き出しな

    がら泳ぐんです。そして息を全部吐き切ったら、顔を

    水面に上げてまた口で息をするんです。これの繰り返

    しです…」

 「えっ、そんな風にするんですか? 知らなかった…」

S君「今まで、誰かに教わりませんでしたか?」

 「初めて聞きました。顔を水中に沈めているときは息を

   せずに我慢して、苦しくなったら顔を水面に上げて息

   を吸うものだと思ってた…」

 

 たったこれだけの会話で、私の水泳技術はコペルニクス的転回をみたのです。

 

 「呼吸法」というものを知らなかった私に気づいてくれたS君は、まさに“人生の恩人”です。20歳くらい年下でしたが、いつも感謝しています。以来今日まで、週に1回は必ずプールで泳ぐようになった私ですが、その“極意”を覚えてから、あっという間に何キロでも泳げるようになったのです。

 

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 私の「泳ぎ」の歴史は、小学校時代にさかのぼります。
 京都市内で生まれ育った私のそばには川も海もなく、水に触れられるのは毎年、夏休みの行事として京都府南部を流れる木津川に行くくらいのものでした。でもそれは、「泳ぎに行く」というよりは、避暑のために「川に浸かりに行く」ようなものだったのです。


 そんな状態でしたから、酷暑の真夏には滋賀県大津市から京都市内を流れる琵琶湖疏水(びわこそすい)や山の溜池で泳ぐ若者が大勢いました。学校や自治会では「危険なので泳がないように!」と厳しく注意していましたが、がまんできず、ついつい疏水や溜池に飛び込んで藻に足をとられ、毎年、幾人かの犠牲者を出していました。

 

 戦後のことです。小学校にも中学校にもまだプールというものがありません。そこで、市内の学童は夏休みになると、平安神宮の西(川端丸太町近く)にある京都踏水会(武徳会)という野外水泳講習所へ泳ぎを習いに行ったのです。琵琶湖疏水の水を踏水会内に導入し、そこに簡易水泳場がつくられていたのです。

 

 たしか小学校5、6年生のときだったと記憶します。夏休みに入ると週に2~3回、私も近所の友だちと一緒に伏見から京阪電車に乗って通いました。

しかし、その実態は無残なものでした。そこもまた、「泳ぎを習う」というより「水に浸かる」という状態でした。なにせ、市内の学童がわんさか押しかけるものですから、指導者(市内の体育教師が交代でアルバイトに来ていた?)が学童一人ひとりを教えるということは不可能でした。たしかな記憶ではありませんが、毎日、500人くらいの子どもが集まっていたのではないでしょうか。まさに「芋の子を洗う」状態だったのです。

 最初は、たしか5級というクラスで、練習場は水面下1メートル位に板を敷き詰めたところです。私たちは5人くらいが横に並んで10メートルくらいの距離を、顔を水に浸けたり上げたりしながらバタ足で泳ぐのです。その間、苦しくなったら顔を上げて息をし…という感じでした。

 指導者は水に入らず、練習場の外から「よし、次! よし、次!…」と、出発の合図を掛けるだけの“指導”ですから、いったい何をしにきたのか分からない。ましてや、「顔を水中に沈めているときは、鼻から息を徐々に吐き出しながら泳ぐ…」と言った息継ぎに関する“教育”は皆無でした。

 

 そんなわけで、夏が終わっての感想は、「泳ぎを習った」という感覚はまったくなく、「水に浸かって気持ちがよかった。帰りにみんなで食べたキツネうどんがうまかった」くらいでした。

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 それから四半世紀がたったころ。わが家の子どもが近くのスイミングスクールに通うようになりました。京都・伏見大手筋の繁華街にある「ピープル」という水泳教室です。ある日、私は泳ぎを習っているわが子の様子を見に行きました。中に入ると大勢の子どもたちがいるわいるわ。観覧席から見ると、プールのふちにずらっと並んだ子どもたちが脚を水の中につけてバタ足の練習をしており、ちょっと離れたところではビート板に両手を置いて顔を浸けたり上げたりしながら数メートルずつ泳いでいる子どもたちの姿も…。

 

 帰りがけに、ふと受付で、「成人コース」があるのに気づきました。毎週日曜の朝、たしか8時~9時の一時間。仕事で疲れた体を布団の中にもぐらせている時間ですが、「よーし」と一念発起、私も通い始めることにしたのです。

 

 初めての練習日。準備体操のあと数組のグループに分かれて、子どもたちと同じようにビート板を持ってバタ足で10メートルを往復。先生はあの大学生のS君でした。顔を水中に沈め5メートルくらい進んだところで、息をするため「ふーっ」と顔を上げたそのときでした。S君が、文頭に記した言葉を発したのです。

 

S君「のむらさん! 顔を水の中に沈めているとき、鼻から

   息を吐いていますか?」

  「えっ、何ですか、それって?」

 

 <顔を水中に沈めているときは、鼻から息を徐々に吐き出しながら泳ぐ…>

 

 こんなことはごく当たり前のことなんでしょうが、誰からも教えてもらえなかった私としては、知らないものは知らないのです。まさに“天啓”の言葉でした。

 

 そして、習い始めた次の週。私はクロールで1キロを泳ぐことが出来るようになったのです。何の苦しみもなく……。

 

 私は学びました。人間は、「正しい教育」を受けなければならない、また授けなければならない。自分は当たり前と思っていることでも、他人はまだ知らないことがある。それを見抜いてあげることが真の教育だ。漫然と知識を切り売りしているのではなく、その人にまだ備わっていない知識を見抜いて教えてあげる、それが真の教育者である。

 

 余談ながら、このことは、私の「神秘体験(真我意識の実現)」にも通じることを発見したのです。息継ぎの方法を知らず、がまんをして苦しい思いをしていた私。これは「苦の世界」を生きることと同じです。正しい息継ぎを知れば、またたくまに「苦」は消えて楽に生きられるのです。

 

 あれから30年余。今も週に1回はプールで泳いでいます。まさに“至福の時間”です。スピードは落ちましたが、まだ数キロは泳げます。個人メドレーのほかに古式泳法も採り入れ、数年前からは①仰向けになっての個人メドレー②頭の方を進行方向にするのではなく、足の方を進行方向にしての泳法も編み出し実践しています。

 めずらしい泳法なので、周囲の人がポカンと見ていたり、先日は監視員の人が私に向けて動画を撮っていました。そのうち、テレビの「探偵ナイトスクープ」からオファーがくるのでは!? と思ったりしていますが、今のところまだありません。

                

                      (記 2015.6.12 平成27