*随想(6) 気だるさだけが残った大江健三郎氏の講演 | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 

 

 

 きょうは大江健三郎氏の講演を聴きました。


 家のすぐ近くにある龍谷大学深草キャンパスで開かれた記念講演会で、タイトルは『私らは いまにとけ込んでいる 未来を生きている』。

 

氏ほど世の中を真面目にとらえる人はいませんが、話題はもっぱらIT長者などに浮かれる社会を憂え、その社会を救済する手段として、「知識人」が現状を打破していかねばならない、と指摘されました。また、中東や憲法問題もいつも通りの切り口で訥々と語りかけておられました。したがって、その内容について異論はなく、ただただ拍手をおくるばかりなのですが、聴き終えてなんともいえない気だるさだけが残るのでした。

 

なぜだろう?

 

氏の本を読んで、若い頃は何か新しい世界が始まるような沸々としたものを感じたものです。しかし、何も変わりませんでした。果たして、世界は私が考えるようなものではないのか、それとも私が老いたのか。

 

つらつら考えるのですが、結局そこまでなのです。「知識人」がいくら燃えても世界は冷めているのです。否、あのパリの時代のように大衆が燃えても、やがて時代が冷めていくのです。幻想の世界に血は通いません。

 

この世で最上の指針となるべき知識の結晶も、運動としては実を結びませんでした。やがてコミュニストは去り、時代は流れていきます。人はふと立ち止まってその不条理に気づいても、意識にまでは上らないのです。意識が世界をつくるとしたら、真我の伴わないこの二元論的世界は絶望です。

 

 また、本質を掲げる宗教家らもみずからの運動が平和に結びつかないことを自覚できないでいるのです。真の平和と至福を獲得するには、時代を超えて世界の人々が真我を希求する以外あり得ません。

 

                    (記 2007.5.19 平成19)