のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。


                 ユングの予言                


     

            人は意識によって存在し、意識が思考を生み出し、

          思考が新たな意識を創造する。したがって脳が意識を

        生み出しているというよりも、ある集団的無意識が

      人間の脳を創生させていると考えるべきである。



                   次の文明は、一神教や独裁専制ではなく、

                 霊性の支配する時代となるであろう。

 

 

 

 

      

          白洲正子さんと明恵上人

 

      過去に、白洲正子さんにお会いしたことは

     ありません。しかし、私にとっては「近くに

     居てくださる」ふしぎな人なのです。もう、

     泉下の人ではあるのですが……

 

 

 理由は、私の母方の先祖である紀州湯浅城主・湯浅宗重の孫にあたる「明恵上人(みょうえしょうにん)」を追慕し続けた女性(ひと)だったからです。

 

 半世紀も前のこと――。明恵上人生誕の地、紀州(和歌山県)湯浅の地を青年だった私が訪れた時の記憶はいまも鮮明です。上人ゆかりの「施無畏寺(せむいじ)」を訪れたとき、ご住職にお会いしました。「明恵上人を知りたくて京都からやって来ました」と言うと、作業の手を休められ、いろいろと話を聞かせていただいたのです。

 そのなかで、「先日は今東光さんがお見えになっていましたよ」とおっしゃったのには驚きました。天台宗大僧正で小説を書き、毒舌和尚と揶揄され、瀬戸内寂聴の”後見人”みたいな、あの人です。その人が”清僧”といわれた明恵上人の里を訪れたことに、今東光という人物を見直したのです。

 そして、私がそこを辞去してからどれくらいたった頃でしたか、新聞か雑誌で「白洲正子さんが湯浅を訪れた」という記事を見て、その時はじめて白洲正子さんが明恵上人を慕い、かつ学ばれていることを知ったのです。

 うれしかったですね。”自分との縁”を感じたのです。それから後、私は白洲さんの著書を読むようになったのですが、とくに明恵上人についての随筆は、ほんとに近しい人がこの世におられるのだ、と感謝するのでした。

 

 

 

               +

 

 

     さて、先日のこと。朝日新聞朝刊1面のコラム

    「折々のことば」に、二日にわたって「白洲正子

     さんのことば」が取り上げられました。

               (引用し、紹介させてもらいます)

 

 

   = 2023年10月1日付 =

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            折々のことば:2867 鷲田清一

 

 

      神に祈る姿は、世の中で最も

        美しいものの一つです。

           

                           白洲正子

 

                    ◇

 

 

    祈りは、ある慾や願いが元にあったにせよそれさえ

   忘れ、自分を遥かに超えるものに身を委ねることだと

   随筆家は言う。とはいえこれほど難しいこともない。

   だから、自然の情景や絵を見て思わず「ああ、いい」

   とため息を洩らし手を合わせたくなる、その気持ちを

   大切にすればいい。「安心出来るという、これ以上の

   強味は人間としてない筈です」と。

 

                『かそけきもの』から。

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   = 2023年10月2日付 =

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            折々のことば:2868 鷲田清一

 

 

    病が偶然もたらした意識不明の

   状態は、舞台に在る時の心理と寸分

   違わぬもの

              白洲正子

 

               ◇

 

 

     随筆家は若い頃三度死にかけた。意識はないのに

    聴覚は鋭敏で、遠くの部屋の会話まで聞こえた。体

    が透明になり宙に浮く感じがしたという。舞台でも

    同じことが起こる。面や装束で自由を奪われている

    のに体は透け、「ふだんの稽古だけがものをいう」

    極度の集中状態に入る。そのために能は何百年もか

    けて「ひねくれた工夫を凝らして」きたのかと。

 

                 『かそけきもの』から。

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               +

 

 

 神秘体験、臨死体験を経てきた私には、この気持ちや現象がよくわかります。「現実世界」だけが人間の意識の範疇ではない、ということを“身をもって理解する”ことの出来る(出来た)ことに感謝するのです。

 

 また、その体験が、白洲正子さんの文章にもよく表れています。そしてまた、明恵上人との“邂逅”がそのような文章、随筆をうみだす因でもあったはず。

 

 

          ありがたいことです。

 

 

               (記 2023.10.15 令和5)