そして育休中、1歳までの日々を回想した。
やはり楽しいことだけではなかった。
いつまでも泣き続けるのを聞き続けて気が狂いそうになった日々もあった。
自分の場合「この子がいなければ」とまで思い詰めることは無かったが、まぁ地獄だと白目をむいた日もあったし、激しい胃痛に見舞われる日もあった。
生まれ育った地元で、夫は育児に超協力的、近所に実の親兄弟が住んでいてちょくちょく顔を出してくれる、夫の家族も協力的、子育て経験豊富な友達もたくさん近くにいて、いつだって相談できる、自治体のサービスも豊富、そんな超恵まれた環境にいた自分ですら、それだけケアされててもなお、辛い時期があったのは事実だ。
それだけ子供と向き合うのが大変だということ。
特に記事にもあったが、核家族化や地域との関わり合いの希薄さ、面倒だけどちょっとお節介焼いてくれる人の存在があれば変わっていたかもしれない結果。
現代の世の構図の中で、1人取り残されたかのようになる母親たち。
社会のモラルに対する目が厳しくなればなるほどに、子育てはしにくくなる。
周りの子に比べてどうだろう?
何で泣いているの?
いうことを聞いてくれないのはなぜ?
自分は愛情をかけられているのだろうか?
全然寝れない
体が言うことを聞かない
感情は制御不能
周りの目が気になってしかたない
育休中や専業主婦で周りとの接点がない
ママ友とうまくやらなきゃいけない
育児にテンパってるなんて恥ずかしくて言えない
夫や家族に子どもの責任を押し付けられる
家のこともやらなければならない
仕事をする時間が足りない
キャリアを諦めなければならない
趣味の時間もない
身なりを整える時間すらない
インスタに載っているようなキラキラママになれない
あぁしなければ、こうしなければ。
母親として失格だ
自分の人生はどこいった?
こんな自問自答がおよそ20年続くわけで。
乗り越えれば強くもなれるが、
一歩踏み外すと転落。
多かれ少なかれ、世の母親がそんなギリギリの状態にあるということは
男性主導の社会では認知すらまともにされていないのかもしれない。
そりゃ産みたくない人も出てくるだろう。
本能的に子どもが欲しいと思ったって、
社会的に自立してなければ経済的に難しいわけで、
それを叶えようと仕事に奔走していれば、
婚期を逃し、気づけば高齢出産。
不妊に諸々の出産リスク。
社会の仕組みとして、保障だけを膨らませれば良いとは思わない。
儲からない、経済不調、ライフイベントが重なりやすい女性に心身負担が寄る。
余力ある人がいるならば、もう一つ頑張って欲しい。
せめて自分の足元は自分で固めて欲しい。
ただそれだけのことで解決していく部分もあるはず。
なので、やれることはやり、少なくとも自分で自分の面倒が見れるうちは、自立的に生きる努力をしようと思い直した。
母親や女性への支援について、生活や働き方の多様化によりニーズも多様化している。
全部汲み取るのは難しい。
一つ言えると思うのは、社会が子どもを育てることについて、さまざま許容をしていくこと。
もちろん子どもの成長において躾も大事。
甘やかせと言っているわけではない。
みんなでやっていきましょうよ、と。
幼くて訳わかんない子どもには、ゆったりとした気持ちで微笑んで見ていましょうよ、
そこそこの年齢の子には、ささやかにお節介してやりましょうよと。
ちっさいことでイライラちゃうような社会の大人がもっとちゃんと大人になりましょうよ、と。
せめて大人のフリしましょうよ、と。
そんなことではなかろうか。
もちろん社会的保障を充実させていくことも大事だけども、やっぱり風土が変わらないとポジティブに捉えられない。
子どもがいて初めて経験することが多いが、楽しいことも良いこともたくさんある。
夫婦共に趣味に没頭していた生活に飽き、何かが足りないと妊活を始めて、一人目はダメだったけれどもようやく我が家に生まれてきてくれた我が子。
忙しくてイライラもするけど、一緒にいるとやっぱり楽しいし、何よりかわいい。
特に出産してすぐの幸福感は、これまでの人生で一度も味わったことがない、異次元のレベルのものだった。
いいものなんですよ、本来。
もちろん生き方は人それぞれ。
からなず子どもを、とも思わない。
ただ、欲しいような気がするのに、踏みとどまる理由があるならば、何とか手を打てないものか、と思ってしまうところだ。
責任逃れするようで不甲斐ないが、何を解決できる器でもない。
とはいえ己はどうするかということを改めて考えるるにあたり言葉にしたくなり。
皆いろいろなことを思うだろうが、まずは個人としては己を強くして行かねばと改めて思った。