5月27日
昼ごはんを楽しんだ後、バスで一路リラの僧院へ。
ソフィアの街中から2時間半ぐらいの道のりです。
途中、コウノトリが家々の煙突に巣を作る街を通ったり、
道端で農家が売っているさくらんぼを食べたりしながら
目的地に進みます。
広々とした平野部から山間に差し掛かると
まるで、箱根や日光の山道をドライブしているよう。
森や川の様子が本当に日本の風景に似ています。
樹木に詳しい参加者によると、木々も
全て日本にあるものだそうです。
人里はなれた山道を奥深く進んでいくと突如登場したのが
世界遺産でもあるリラの僧院です。
リラ修道院は、ブルガリア皇帝ペタル1世の統治する時代(927年-968年)に、
リラの聖イオアン(イヴァン・リルスキ)が設立したと考えられているそうです。
彼は教育を受けるため山脈へやってくる彼の教え子達が修道院を建設していた間、
実際にその修道院からそう遠くない洞窟で生活していました。
創設以来、リラの修道院はブルガリアの統治者から後援され、尊重されてきました。
オスマン征服まで続いた第二次ブルガリア帝国のほぼ全てのツァールによって大規模な寄付が行われ、
修道院は12世紀から14世紀にかけ、ブルガリア国民の意識の中で文化的・精神的中心の頂点を極めました。
リラ修道院は14世紀中に、フレリョ・ドラゴヴォラという名の地方封建王により、
現在の位置に再建された。修道院内の複合建築物にはこの時代に建てられたものが現在も含まれており、
フレリョの塔(1334年-1335年竣工)やその隣にある小さな教会(1343年竣工)などがそれです。
司教の椅子や豪華に彫刻された修道院の門も、この時代に属するもの。
しかし、14世紀末のオスマン人が出現し、修道院への数々の襲撃や破壊が15世紀半ばに行われました。
その後ロシア正教会、正確にはアトス山にあったロシコンの修道院による寄付のお陰で、
15世紀末には聖ヨハネの遺品を持ってキュステンディル地域からやってきた、3人の兄弟により
リラ修道院は改築が施されました。
修道院内の複合建築物は、外国の統治下にあった時代におけるブルガリアの言葉や文化を所蔵しています。
ブルガリア復興期(18世紀-19世紀)において修道院は、1833年に火事で破壊された後、
1834年から1862年の間にブルガリア全体から裕福な国民の援助を受けて、
建築家アレクシ・リレツの指導の下に修復が行われた。住居となる建物の建設は1816年に始まり、
1844年にはフレリョの塔に鐘楼が取り付けられました。
また修道僧のネオフィト・リルスキはこの時期に修道院内へ学校を設立しました。
ブルガリア復興期の建築物の最初の傑作の一つとみなされている修道院複合建築物は、
1976年に国立史跡として表明され、1983年にユネスコの世界遺産へ登録されました。
1991年以来、修道院はブルガリア正教会の教会会議に付随しています。
門を入ると宿坊がぐるりと教会を囲んで立てられています。
一時は何百人もの修道僧がここで生活をしていたそうです。
現在はわずか10名の修道僧によりミサなど宗教的な行事が執り行われています。
聖母教会の外廊下の内側は外見とはまったく異なる壁画で覆われています。
山の湧き水がいたるところで飲めるようになっています。
とても冷たく、ミネラルたっぷりな感じで身体が綺麗になる
ような錯覚に・・・。とても美味しかったです。
2時間ほどゆっくり内部を観光した後、
近くのレストランで名物の鱒料理をいただきました。
夜の8時というのに外は昼のように明るいです。
はじめの一品は、白いんげん豆のスープ。
見た目ほど辛くなく、美味しかったです。
メインは、鱒の素揚げにサラダ添え。
鱒は日本のものより若干大振りな感じでしたが取れたてです。
日本の渓流にもあるような、鱒の養殖所も道すがら見えていました。
揚げたお魚の置き方は、日本みたいに綺麗にそろっているということはなく、
上下左右ばらばらでした。
味付けはほぼなく、好みでレモン、塩、コショウ、オリーブオイル、ワインビネガーで味を調えます。
このスタイルは今後も続くことを考えると、ブルガリア料理は、基本的にかなり薄味で好みで
調味料をかけろということでしょうか?
デザートはクレープでしたが、これはまさに『目が覚めるような』甘さでした。
この後、2時間ほどかけてソフィア市内のホテルに向かいましたが、バスの車中は言うまでもなく爆睡でした。







