モトです。
友 だ ち
どのような関係の人ならあなたはそう呼ぶことができますか。?
近年、年齢が下がれば下がるほど「友達」という言葉を
安易につかうように私は感じます。
「友達」という説明をうけてよくよく話をきいてみると
それは「友達」なのか?と言いたくなることがよくあります。
私の基準だと
楽しいことを共有できる(だけの)人は「仲のいい人」
私が困ったときに相談できたり
それに対して疎まずに手を貸してくれる人は「友達」
それ以外は「知り合い」
突き詰めていくと本当の友達は一握りかもしれません。
でも、私の友達は初めから友達だったわけではありません。
長い年月をかけ、お互いを知り、いい時も悪い時も共有しながら
相手を信じ、また相手からも信じてもらえるようになった結果です。
どんなに時間をかけて信じあえると思っていても
ほんの些細なことで、ほんの一瞬で、関係が崩れる時もあります。
例えば、たった一度、ウソをつかれた、とか
例えば、たった一度、大切な連絡がこなかった、とか
反対に、ただの知り合いだと思っていた人が
困っているときに助けてくれたり、親身に世話をしてくれると
ただの知り合いから、親しい人になったり、友達になったりします。
きっと、相手の利益にならないことなのに
労を惜しまないでいてくれたこと
その事実が安心を与え、
次は私が助けてあげようという気持ちを引き出すのだと思います。
しかし、それもまた
例えば、たった一度、ウソをつかれた、とか
例えば、たった一度、大切な連絡がこなかった、とか
ほんの些細なことで、ほんの一瞬で、関係が崩れる時もあります。
相手を信用する ということ
それがいかに 危うさ の上に存在するのか
それがいかに 容易には手に入らないものなのか
私たちは経験的にそれを知っている。
そして、人間の 信じたいという 性質は あらがいようがなく
危うく困難な 信用を 勝ち得るために
裏切られても、裏切られても、信じたい とまた動き始める。
日本政府は長く国民からの信用を得られずにきました。
この国難のときこそ、信頼を取り戻す契機となる
はずが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
政治ゲームに興じすぎたおっさんたちは
信じること、信頼を得ることまで、ゲームのコマにしてしまった。
「もう政府は信用できない」と口では言ってみても
私に湧き上がる 信じたい
あらがいようのないその思いに自嘲がこみ上げます。
私の生活は日本国家システムに隅々までのっかており
のっからなければ生きていけないことに自嘲するしかない。
私と国家の関係はいつまでたっても「知り合い止まり」
「友達」にはなれないのかもしれません。