会話体に関係する<私> | 月に吠えてるわけじゃない

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「未来」「かばん」に所属しており、拙作も載せることがあるが悪しからず、、、

 

 
 私性の<私> 堀田季何
 
その下は、内容に従って作者実体が決定する「視点主体」である。これは作者自体や認識主体とは違い、作中(テキスト内)の存在である。俗に云う視点や人称の問題はこのレベルで発生する。また、視点主体が定まる事により、作者実体は内容を表現する行為が可能になる。更にその下のレベルは、表現過程で生まれる「作中行為者」である。主人公とも云える。私性の議論において、これら作中にある視点主体と作中行為者を合わせて「作中主体」と云う事が多いが、作者同様両者が同一とは限らない。
 
 前回と今回で分かる思考のモデルがある。
 まず、一般にはなかったであろう分類を示す。
 そして、それらは一般的にこう呼ばれている、
 という提示である。
 今回であれば「視点主体」と「作中行為者」は
 分化させて理解させている。
 その後に、これらは実は統合されて「作中主体」と
 いう名づけ・概念であったのだと納得させる。
 
 そして、レベルという段階の思考のモデルがある。
 (下というよりも円の内側に行くような感じ)
 
 実に頭のいい科学者のような方法的な理解と用語の使い方である。
 これを細かく論理展開を説明して、用語を一般的なものに変えれば
 たとえば、「例え」を使うとか(ただ、科学者の中には例えが例えにならないという専門性の課題をよく見かけるから、もっと階段を降りて説明されることが要求される。)(この認識の解説本があれば、歌人の教科書になってもおかしくない)
 
 さて、「視点主体」は、作中(テキスト内)の存在である。
 そもそも、作者と作品は別であることが言外に含まれている。
 それは、前回のことが関係するように思う。
 さらに、この論文のこの後に関係するから、たぶん、ここでは書かない方がいい。(ぜひ、一読を)
 作中の「視点」という組み合わせでだいたいが分かる。
 (主体という言葉をここでも崩さないのは重要である)
 視点というのは、作品において明示的に表れる。それまでは、漠然として<私>であり、作中の視点において(身体的な(あるいは作品的な))「視点」を得る。
 
 「また、視点主体が定まる事により、作者実体は内容を表現する行為が可能になる」
 
 前回の「作者」というのは、前段階であり、簡単に言ってしまえば
 「その人」のことを説明しているように思う。
 「私以外私じゃないの」であり、作品の前段階
 あるいは、作品の奥の姿の説明であり、
 たとえば、キリスト者である私と独身男性である私は
 「認識主体」としての個性を持つ。
 (キリスト教的な価値観を持つと思ってもらえればいいと思う)
 短歌をする独身男性はたくさんいると思う。その中で神は愛であること信じているということは、今の時点では個性的と評価される。
 その説明が前回の「レベル」である。
 
 「視点」と「(短歌作品の)内容」は、密接不可分にある。
 短歌において<私>というのは、(たぶん)排することができない。
 「私」の「視点」で林檎が赤いと見れば
 いくら青い林檎であろうと
 「視点主体」で「赤い」と認識しているのである。
 つまり、「視点主体」の「視点」は「認識主体」の認識に
 のぼるのである。
 作中において赤いことを指向すれば、青い林檎であっても
 認識も赤でいいのだ。
 それを決定するのは「作者実体」である。
 (いわれていないが、下位レベルさえも決定するのは、作者実体である)
 
 短歌という作品に表れる「視点」は、即作者であるわけではないのである。あくまでも、「認識主体」の下での「視点」の獲得であり、「視点」には「虚構(嘘)」も含まれる。
 つまり、擬女性的短歌というのも「視点主体」というレベルでは許され、それは「認識主体」の認識から「作者自体」が決定することで可能になる。
 したがって、穂村弘氏がしていたことは、女性になりかわって「男性」が擬女性的視点短歌を作った。これは、堀田氏は述べていないが、私性を拡張する(堀田氏的には、視点主体の拡張であるかもしれない)。
 
 作中行為者は、主人公である。
 ここは、ヒントがなく読解できない。
 「行為者」という単語で想像するしかない。
 
 「視点」と「行為」は、ほぼ身体的な起源から発するから
 目と手のすることは、作品の内容に関係するため
 説明を排したのだと思う。
 
 ここまで、詳しく書いたのは
 「会話体」というのは、この「視点主体」と「作中行為者」が
 大きく関係するからである。
 (著者はある結論を見出しているから、私のこれらの解釈からの結論が違うのも面白いと思う)
 会話体は、このレベルでの出来事を大切にする。
 それも「会話」というフレームを与えることで得られるものである。
 「会話がつまらない」という議論もあるだろうけれど
 私が志向しているのは、こうした構造体への思いである。
 まさか、こんな方法論に出会うと思わなかった。
 
 私のつたない解釈では不十分だと思う。
 本が欲しい。
 私の解釈が間違っているとか本当か?
 と思う人は、ぜひ、原文を読んで欲しい。
 きっと、この著者が書いた方法論は、私を含めた
 歌人の教科書としてなるかもしれない。
 ただ、哲学的なおかたい感じなのは、正直しょうがない。
 このつたない解釈から短歌がただの五七五七七の
 音数律というのではなく
 (偶然短歌が短歌ではない、と言えるように)
 ここまで「私」を切り刻むことでできる
 抒情詩なのだ、ということを一般に知られたい。
 
 短歌をより大衆文化とすることを志向するが
 短歌をよりハイカルチャーであることも訴えたい。
 (正統文化であることは疑いようもない。)
 一般的に、現代詩は難解であり、小説は分かりやすい。
 区別などどうでもいいのだが、メインカルチャーかつハイカルチャーであろうとすることが、短歌をする人(歌人)が、本来持つべき態度だと思う。
 アバンギャルドが古いなれば、何かいい言葉がある。
 その精神こそが重要なのだろう。
 
 石板を持って、深い河を渡って
 約束の地に私は生きたまま渡りたい。