先日、皇位継承会議が開かれた。 そこで、旧皇族方の皇族への復帰などが議題になったみたいだ。 (評論家の竹田恒泰さんなどが、かっての皇族、竹田家だったとのこと。  復帰されることになるのだろうか。) 勿論、女性宮家の件も話し合われたみたいだ。 もし、眞子様が小室と結婚した場合、女性宮家が創設されることになるかもしれない。 しかし、それだけは、避けなければ、ならない。 それは、平安時代にあった道鏡事件である。 ~(以下、引用)~ 道鏡の政界進出[編集] 弓削道鏡は、孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世した。天平宝字8年(764年)、孝謙上皇と対立した最高実力者・藤原仲麻呂が反乱を起こす(藤原仲麻呂の乱)と上皇は仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集して仲麻呂を滅ぼした。乱後、上皇は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を武力をもって廃位して淡路国に流刑にすると、自らが天皇に復位する(重祚)ことを宣言した。復位した称徳天皇のもとで道鏡はその片腕となり、天平神護元年(765年)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年(766年)には「法王」となる。こうして、称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡は、政治にしばしば介入した。 だが、反仲麻呂派の貴族の大勢はあくまでも仲麻呂の政界からの排除のために上皇に協力しただけであり、孝謙上皇の復位や道鏡の政界進出に賛同したわけではなかった。称徳天皇は独身で子供もいなかったため、その後の皇位を誰が継ぐのかが政界の最大の関心事となった。天皇もこの空気を敏感に察しており、淡路に流された廃帝(淳仁天皇)の謎の死、和気王の突然の処刑、天皇の異母妹である不破内親王の皇籍剥奪など皇族に対する粛清が次々と行われていき、皇位継承問題は事実上の禁忌となっていった。 2つの神託[編集] 神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む[2]。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。 道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて(狭虫(さむし せまむし)と改名させられたという説もある)処罰された[3]。 10月1日には詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自ら(称徳天皇)自身が決める事を改めて表明する。 事件決着後[編集] 宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御すると、『続日本紀』の記述によると群臣の評議の結果、皇太子を白壁王(後の光仁天皇)とする称徳天皇の「遺宣」が発せられ、道鏡は下野国の薬師寺へ左遷(配流)された。なお、この時(宝亀元年8月21日)の白壁王の令旨に「道鏡が皇位をうかがった」とする文言があるものの、具体的に道鏡のどのような行動を指すのかには全く触れられていない。 ~(以上、引用終わり)~ 道鏡は、孝謙天皇から寵愛を受けて、政界に進出し、宇佐八幡のご信託で、 自分を天皇にせよ。といった件で、失脚した人物である。 また、天皇陛下と恋仲になったとまで言われ、 大事なところが大きいとも噂されていた。 当時の時代背景も、疫病(天然痘)が流行したという背景があった。 現代もコロナ禍であり、時代背景は似ているといえるだろう。 もし、小室が宮家に入った場合、道鏡と同様な発言「私を天皇にせよ」と 言い出しかねない。 これは、大変問題がある。阻止しないといけない。 眞子様と小室の結婚は、令和の道鏡事件になりかねない。 眞子様には、早く目を覚まして、小室と絶縁してもらいたいと心から願っている。 ↓fc2ブログにも記事を書いています。 http://nomo18matsui55.blog.fc2.com/blog-entry-10523.html?sp