ホルトの丘の上に、石と木で造られた大きな洋館がある。

 迎賓館「グステラント」。

 かつては、外国から訪れる元首や王族、そして各国の要人たちを迎えるために使われていた場所だ。

正面には、大きな扉がある。

 しかし、その扉は普段は閉じられている。

 来館者が使うのは、その大門の隣にある小さな扉だった。

 小さいとはいっても、普通の建物の扉と比べれば、十分に大きい。

 扉をくぐると、そこには大きなエントランスホールが広がっている。

 現在のグステラントは資料館として一般公開されており、館内には迎賓館だった頃の歴史を伝える品々が展示されていて、観光客に人気のスポットだ。


 そのエントランスホールの真ん中。

 大扉の正面には、ひときわ豪華な扉があった。

 その先にあるのが――

 パレッシーマ。

 かつて、外国から訪れた元首や王族、要人を招いて晩餐会が行われていた部屋である。

 そして現在。

 パレッシーマは、一般の客も利用できるレストランになっていた。


 午後四時が近づく。

 資料館だったグステラントの空気が、少しずつ変わり始める。

 スタッフたちは慌ただしく動き始め、パレッシーマの開店準備に取りかかる。

 豪華な扉の前には衝立が置かれた。

 そこには、

 PALESEAMA

 と書かれている。

 衝立の横には、ブラックスーツ姿の案内係が立った。

 そしてパレッシーマの中では、ウェイトレスのイザミが忙しく働いていた。


 イザミ、三十八歳。

 夫はホルテ・イマナサスで漁師をしている。

 週に三日ほど、このパレッシーマでウェイトレスとして働いている。

 彼女は、派手に目立つタイプではない。

 けれど、イザミが店内にいると、不思議とその場が柔らかくなる。


 客に声をかけるときの笑顔には、自然な親しみがあった。

 丁寧な言葉遣いの中にも堅苦しさがなく、初めて訪れた客でも、なぜか安心して話しかけられる。

 そして仕事となれば、動きは手際がいい。

 テーブルの位置を直し、食器の向きを揃え、椅子をほんの数センチ動かす。


 一見すると何気ない作業だが、イザミは細かなところまでよく見ている。

 パレッシーマという格式ある場所に似合う落ち着きと、漁師の夫を持つ港町の女性らしい気さくさ。

 その二つが、イザミという女性の魅力だった。

 そんな彼女が身につけているのは、伝統衣装のハオ。

 ハオは、直径およそ三メートルにもなる大きな円形の絹布を使った衣装だ。

 外側のグレーの絹が「外ハオ」。
 その内側には、絹よりわずかに長い派手な柄の木綿――「内ハオ」が重ねられている。

 中央の穴から頭を出し、左右の穴から腕を出す。

そして、腰の辺りを革紐で結ぶ。

 それ以外は何も着用しない。

 ただし、パレッシーマで使われているのは、一般的なハオではない。

 ここでは、宮殿に仕える人々が着用する特別なハオ――
 ロイヤル・ハオ
 が制服として使われている。

 ムラサキ色の外ハオは腰まで。
 その内側には、ベージュ色の無地の内ハオが重ねられ、こちらは膝までの丈になっている。


 一般的なハオとは違う、宮殿に仕える人々のための特別な衣装。

 歴史ある晩餐会場で働くイザミには、よく似合っていた。

 もっとも――

 本人は、そんな格式を気にしている様子もない。

「さて、と」

 イザミは小さく息をついて、次のテーブルへ向かった。


 中央付近には、四人用の丸テーブルが五つ。

 両側の壁には、二人用のテーブルが五つずつ。

 開店前の店内を、イザミは一つずつ確認していく。

 そのときだった。

「……あら?」

 入り口付近のキャンドルが一本、消えている。

 しかも、そのキャンドルはイザミの背よりも高い。

「もう……」

 イザミは脚立を持ってきた。

 脚立を立て、その上へ上がる。

 そして、キャンドルに火をつけようとした――

 その瞬間。

「うわー」

 少しだけバランスを崩した。

 左足は脚立の上部。

 右足を壁につく。

なんとか姿勢を保ちながら、イザミは振り返った。

 その目線の先、大きな振り子時計の時刻は――

 午後四時。

「あっ」

 そう思った瞬間だった。

 入り口の扉が開いた。


 よりによって、イザミがそんな格好をしている、まさにその目の前で。

 客が入ってくる。

 そして客は、頭上にいるイザミを見上げた。


 しばらくの間。

 イザミと客の目が合った。

 しかし――

 客は何事もなかったように、そのまま通り過ぎていった。

 続いてブラックスーツの案内係が客の前へ出る。


「こちらへどうぞ」

 何事もなかったかのように、客を奥のテーブルへ案内していく。

「……見なかったことにしてくれたのね」

 イザミは小さくつぶやいた。

 少し恥ずかしそうに、それでも笑っている。

 なんとかキャンドルに火をつけると、脚立から降りた。

 そして脚立を抱えてバックヤードへ運んでいった。

 しばらくして。

「イザミ」

 支配人から声がかかった。

「はい?」

「先ほどのお客様をお願い」

「あのお客様……ですね」

 イザミの脳裏に、先ほど自分の股下を通り過ぎていった客の姿が浮かぶ。

 一瞬だけ苦笑する。

「かしこまりました」

 イザミはメニューを手に取った。

 そして、先ほどの客が座るテーブルへ向かう。

「お待たせいたしました」

 穏やかな笑顔でメニューを差し出す。


「こちらがメニューでございます」

 客がメニューを開く。

「おすすめは、イモルサインテーレでございます」

 イザミの声には、押しつけるようなところがない。

 ホルトの名物料理を、本当においしいと思っているからこその、自然なおすすめだった。

 客は何も言わず、メニューを見つめている。

 ページをめくる。

 しばらく考えたあと――

「……これを」

 客が指差した。

 イザミが視線を落とす。

 そこに書かれていた料理名を見て、ほんの少し目を見開いた。

 コールマルク。

 宮廷料理の最高級品。

 蒸した鮑を主役にした一皿。

 鮑の上部には、栗の実のシロップ漬け。

 そして、その鮑を取り囲むように海藻の酢の物が一周添えられている。


「……コールマルクでございますね」

 イザミは確認する。

 客は、静かにうなずいた。

「お飲み物はいかがなさいますか?」

客は尋ねる。

「おすすめは?」

「昔、宮廷でのみ嗜まれていたヴィーノナールがおすすめです。 今は「ペッパーワイン」の愛称で親しまれています。コールマルクにも合いますよ」

またメニューを眺める。

「ペッパーワイン」の説明を聞いた客が、メニューをしばらく眺めたあと、イレ・タロッカを指して尋ねる。

「これはどんなドリンクですか?」

イザミは答える。


「海藻で作ったリキュールに、マイトル特産の紫蘇を漬け込んだお酒です」

「じゃぁ、それを下さい」

お客はメニューを閉じた。

「かしこまりました」

メニューを受け取るイザミは、客の指にちょっとだけ触れ、頬を赤くして微笑む。


   そしてーーー

一瞬振り向こうとして、前を向き直す。


  キッチンへ戻るイザミの足取りは軽やに。

  腰の革紐は、いつの間にか消えていたのだった。