
追悼平和祈念館というのが近くにある。原子爆弾によって死亡した人々や、その後亡くなった被爆者を追悼し、恒久の平和を祈念するための施設だという。こちらには立ち寄りませんでしたが、開館したのが、なんと平成15年だと聞いた。国立の施設、戦後うん十年というのに、これまで何してたんだろうとの思い強し。

平和公園にやってきた。原爆十周年の日の前日にあたる昭和30年8月8日建立されたという「平和祈念像」座像 9.7m の右手は原爆を示し、左は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈っているという。像の裏面には作者北村西望さんの言葉が刻まれていました。・・・あの悪夢のような戦争、身の毛のよだつ凄絶悲惨、肉親を人の子を、かえり見るさえ堪えがたい真情、誰が平和を祈らずにいられよう (後略)

のどが渇いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
昭和44年に建設された「平和の泉」には―あの日のある少女の手記から―として、こんな文言が記されていました。まっすぐ奥には平和記念像が見えています。

平和への架け橋か。噴水に虹が。

「長崎の鐘」碑文には 【 長崎の鐘よ鳴れ、長崎の鐘よ鳴れ、私達の肉親を奪った、私達のからだをむしばんだあの原爆が、いかに恐ろしいものであるか、あの戦争が、いかに愚かなものでものであるか、長崎の鐘よひびけ、長崎の鐘よひびけ、地球の果てから果ての果てまでも、私たちの願いを込めて私たちの祈りを込めて】と書いてありました。

平和記念像の左右にこの「折鶴の塔」があります。


原爆資料館のところで紹介した永井博士が生活していた「如己堂」がこちらです。浦上のカトリック信者と近所の人の好意で建てられたという2畳一間の小さな木造のお家。もう立て込んでいる町屋の中に、こっそりたたづんでいました。走るバスから辛うじて撮影できました。

1914年に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として創建。1945年に原爆で破壊された様子は原爆資料館の折にお話ししたとおり。現在の建物は1959年鉄筋コンクリートで、1980年に当時の姿に似せてレンガタイルで改装したといいます。

何を写しているのかわからないでしょう。「一本柱鳥居」日本二十六聖人殉教地へと続く浦上街道沿いにある原爆の被害を受けて片側だけが残った鳥居。ここも一応車窓観光の地なのでした。


「坂の街長崎」港を取り巻く山に向かって家屋が立ち並びます。「この町には自転車がいない」 とバスガイドさんは言う。坂道ばかりで自転車は用をなさないというのです。

お奉行さまのお部屋との説明を受けた。長崎歴史文化博物館にやってきました。長崎奉行所の一部を復元したゾーンもあり、取り調べの様子の寸劇も行われていました。

お奉行さまの部屋の隣にお便所があった。

長崎くんちの神輿の中で現存する最古のものだという。1676年(延宝4)から1878年(明治11)まで使われていたそうだ。何と長い歴史だこと200年だ。

諸々の歴史が語られていました。



「年に一度のごあいさつ」の江戸参府。のちに4年に一度になったようですが、天明8年(1788)往路には55日間 (正月15日~3月11日) 復路は43日間(3月24日~8月5日)と書いてある。