大事なことだから二度言います。いえ、何度でも。きっと一生問い続ける。
今日も今日とてヘトヘトでおばばは1秒でも早く寝たいところなのだけど、大事な話し合いが次女と持たれたので記録をしておくことにする。長い文章を書くのは久しぶりでまとめる能力がかなり落ちてそうだから、とにかく記録的な意味合いで残すのみ。次女は、類稀なる(当社比)体操の才能を授かって生まれた。というか正確には胎児の頃から力が強く、この子はもしかしたら体操に向いているのでは、、、と期待を抱きつつの出産、新生児期に足の突っ張りが強すぎて脳性麻痺を疑うほどで、2ヶ月で寝返り、4ヶ月でずり這い、8ヶ月末にはほぼ歩いているという驚異の身体能力を早々に発揮して間違いなく体操に向いている!!!と確信した(思い込んだ)母親によって1歳半から親子体操へ。まもなく足抜きやら前まわりやらができるようになり母はますます熱狂、2歳にして山登りに毎週連れて行くという修行を始めた。母の妊娠による約半年のお休みを経て3歳半から本格的に体操教室へ。4歳前に逆上がり、4歳3ヶ月で空中逆上がり、倒立ブリッジ立ち上がりなどをこなし、5歳0ヶ月にはグライダー、前方転回、6段縦跳びなどができる状態である。そしてついに迎える初試合。なんということだ・・自分の子供が体操の試合に出る日が来るなんて・・体操大好きだったけど身体能力が足りず全く芽が出なかった(習った年齢的にも縁がなかった)母は、感無量を越え、神様に体操の才能を与えてくださったことを感謝してみたり、試合前の不安で眠れなくなったりと大忙しである。一方、何か大きなイベント(体操のテストなども含む)のたびに感じる、次女の精神力の低さ(一回失敗するとあっさり崩れる)に苛立ちがマックスになり先生にどうにかならないのでしょうかと詰め寄ったり本人を詰ったり応援したりと母なりに試行錯誤を重ね、ついに究極の質問をしてしまった。「SちゃんやHちゃん(体操のお友達)と、試合のメダルどっちが大事?どっちがほしい?SちゃんとHちゃんにメダルほしいからYちゃん出ないでって言われたらどうする?」と。寝てしまったのかと思うほどの長い長い沈黙の後の次女の答えは、友達が大事。だった。そして気づいた、あ、そうだ、そういえば、体操はママがやらせてたんだ、ということに。いや気づいていたし知っていた、でもあまりにも能力高いし本人も(ある程度)楽しそうにしてるので、本人も喜んでやっていて、試合で勝ちたいと思ってるに違いないと、勝手に母は思い込んでいた。勝ちたい?と聞けば、勝ちたいと答えるし、(飛び箱)跳べなくて悲しい?と聞けば悲しい、不安になると答える。いや、そりゃそうよね。でも、その言葉は本人から出た言葉じゃない。習い事では一番楽しいし好き。でも、できなくてもいいんだ。どっちでもいい。やってるのが楽しいから。(楽しいことが何より一番大切だよ。ってどのコーチもおっしゃるから、きっとこの気持ちが本当に一番大切なんだろう。私の関わりはそれを潰してしまうのではないかと日々悶々としつつ、楽しいと感じられるまで持ってきたのは間違いなくここまでの母子の努力によるものであるという認識もあるのだ!だって最初いっつも泣いてたじゃん。今は暇さえあれば体操してんじゃん。余談だが、もう何人のコーチに次女の才能への褒め言葉や将来を嘱望する言葉をかけられたことか。私としてはただ早熟なだけでないといいがと日々祈るような気持ちで過ごしている。そのくらい、私にとって次女の体操は生きる光なのだ)でも、「友達と体操、どちらが大事?好き?」の質問には友達。と即答した。友達が何より大事。家族と同じくらい、大好きなの。とのことだった。長い長い沈黙は、きっとママへの忖度で「メダル」と答えるか、自分の本心をママに伝えるか、一生懸命考えていたのだろう。ここで、本心を伝えてくれるくらいにはまだママを信頼しているのだということにほっとしつつ、答えの内容は衝撃でもあった。でもそこに怒りは分かず(ここでキレてたら親子関係は一貫の終わりだったと今更ながら気付いたし、怒りが分かなかっただけ自分はまだ多少はまともな親なのだろうと安堵もした)、自分の中では辻褄の合わないと感じていた多くのことがようやく腑に落ちた。そうか・・この子、別に勝ちたいわけじゃないんだ。そこまで体操に執着ないんだ。自分の才能分かってないし、そもそも自分の才能に(まだ?)興味がないんだ。勝つことより、周りより体操ができることより、友達と過ごせることの方が大切なんだ。なんでそんなにママが踏切台を高く跳べって叫びまくるか、疲れたBBABodyに鞭を打ちながら鉄棒に上らせるのか、分からないんだ。本人自身から湧き出ているやる気じゃないからこの子、心が弱いように見えるんだ。できなかった時に、何をもって自分を立て直せばいいかわからないんだ。なんとしても次は跳んでやる。負けるものか、勝つぞ!!!という思考がなくて、失敗してしまった、別にいいや。でも周りは何かよからぬ雰囲気を漂わせいる、どうしようどうしよう。ってところだろうか。今目の前で自分がやっていることに対して自分の軸がない。転びかけた時につかまる杖がない。自分の言葉で生きていない人間は弱い。というのが私の仕事上の柱の一つで、まさにこれだ。ここで、自己弁護ではないが、親として思うのは、ある程度、勝つこと、勝てること、強いことを経験しないと、それらの喜びを知ることはなく、その喜びのために努力をすることを身につけられないのではないか?ということ。「勝つ」機会を作るのも親のつとめなのではないか?ところが、ここで登場するのが怠け者だが口は達者な姉である。持って生まれた運動能力の中では一番マシだった水泳を一応選手としてはやっているが、冴えないことこの上ない。はっきり言って勉強の方がはるかに能力あるなと思うのだが、まあ本人その気だし、自尊心の一部になっているので今更もうやめたらということもできず生暖かくスルーしているが、その長女ときたら二語分も喋れない頃から一番が大好きで、みていて恥ずかしくなるくらい一番一番連呼するしそのために死に物狂いになるし(でも努力はしない。舐めてんじゃねえぞこら)、さんほの試験の日に試験と伝えてないのに負けない!!!と突然叫ぶような子だった。そう、勝つことの喜びを教えてない、経験していないうちから勝つことが大好きで、それを主張することを憚らない子だった。長女に友達とメダルどっちとる?と聞いた0.1秒も迷わずメダルと答えるだろう。つまり、勝つことへの執着や喜びは、経験(させる)することや教えることではなく、持って生まれた能力の一つなのではないか?ということだ。であれば、「まだ勝つことを知らない次女に勝つ喜びを経験させるために必死に体操をやらせる」という発想は無意味であり、もっというなら勝ってほしい、せっかく才能を持って生まれてきたのにもったいないではないか!というのは相当な意味で親のエゴなのではないか?しかしそれを言い出したら、持って生まれてきた能力以外に働きかけること、すなわち子供の将来のために勉強をさせること、学校に行かせること、習い事をさせること、究極的には死なないように育てることすらエゴということになるのではないか?いや待てしかしこの発想は、エゴが悪いことであるという前提に基づいて成り立っている思考だ。それを言ったら人間が遺伝子の乗り物であるという説は遺伝子のエゴで人間が生まれていることになり、そこを否定してしまったら人間の、遺伝子の存在意義を全否定することになる。うん、そうだ、厨二とは、まさにこれだ。己を否定し、大人を、周囲を、世界を、歴史否定し、生まれてからの14年ほど染み込ませられた浅はかな価値観を一旦破壊して己の価値観を再構築する。その「否定」の際に生まれる産業廃棄物のような思考が厨二病である。つまり、厨二病とは側から見ると粗大生ごみを後生大切にするようなものであるが、ある意味、少年少女たちの短いながらの若さと勢いによって積み上げられた人生の、個の、唯一無二のかけらの集まりなのである。そりゃ、本人たちは大事にするし、だからハートはガラスと表現するのだきっと。で、えーっと話がズレたんだけど、そんなこんなで母は、自分のエゴを改めて認識したし、一方でほとんどの親はここでいうところのエゴを自覚せずに自分の正しさに酔っ払いながら子育てをしてる。だからほんと大人は薄汚えんだよとまた厨二が顔を出してくるが、親である以上厨二を子供にぶつけるわけには行かず、今回出した結論は、私は醜いエゴイストである。これからは、エゴを自覚しながら引き続きエゴに塗れた子育てを続けよう。ということである。このエゴを悪のジャンルに分類して、子供自身が望んでいるわけではないから。という理由で手を引くことは、私にはできない。それは可能性を潰すことを意味しており(手を引かないことで潰す可能性ももちろんあることは自覚している)、結局のところこういう生き方をしているから3ほ2ほ受験両方してしまってあとで自分の首をしめることになった苦い苦い過去を決して忘れたわけではないが、それでも今ここに見えている可能性を放棄することは私にはできない。いつかこのエゴに子供達が気づいて私を非難する日が来るかもしれない。というか、来るだろう。特に次女。そうなったら私は子供にごめんなさいを言うけど、その上で、ママは、これはママのエゴだとわかっていてそれでも続けた。あんたのためによかれと思ってやったんじゃない。ママが、やりたいからやった。ママが勝たせたかった。いつかあなたも勝ちたい気持ちになるかもしれないと期待していたママはただのエゴイストだ。己を否定することで自分を保つ私のこの在り方は、きっともう一生変わらない。でも、このことに気づかない愚鈍な大人で生きるよりはずっといい。だから私は母校が好きだ。次女は、好きで体操の才能を持って生まれてきたわけではない。次女が好きなのは、人間同士のあたたかな交流。優しい心。神様。次女の幸せは、、、、、、、私は次女が体操をしている姿を見ているのが何より好きだ。子育てを始めてから、一番幸福を感じる瞬間である。これに関してだけは、申し訳ないが子育ての他の何をもってしても代用できない。次女の体操のためなら自分の仕事での夢を捨ててもいいと思えるほどに。だから次女、ごめん。あなたには私のために体操続けてもらうわ。でもせめてこれからは、勝ちたいよね?上手くなったね!試験受かるかもね!って言わないように気を付ける。あなたが勝って、強くて、才能あってママは本当に嬉しいの。負けてんじゃねえよクズ!!!!ってちゃんと言うから。ママは碌でもないエゴイストとして生きて死んで、地獄に行くわ!!!!!!だけど、あなたが友達が大切って気持ちは体操の才能と同じくらい大切にする。それは約束するね。ママのエゴに付き合ってくれてありがとう。ごめんね。神様は、私が次女に無関心でいられないよう、体操の才能を次女に乗せたんだろうか。私がエゴイストだから、私に似ている子に私が最も渇望していた才能を乗せたんだろうか。長女のように生来の怠け者か、三女のように丸々とした天使ではなく、何の変哲もない次女に。体操の才能だけでなく、努力もできてしまう才能と共に。私が次女を追い詰め、私自身をも追い詰めて自分の業を自覚し、ずっと苦しむように。そしていつものように苦しみの中で己を再発見して、また苦しみのぬるい沼に沈み込んでいくように。ユダさん、あなたにはエゴがお似合いよ。って言葉に私は救われるのだけど、今となってはもう、誰も言ってくれない。もしここに一つだけ救いが生まれるとしたら、次女の体操の成長が早々に頭打ちになって私が体操に見切りをつける時である。しかし私はそんな負け犬な救いは望んでいないし、今まで応援してきてくれた人たちが離れていくような経験を次女にさせたくないとまたエゴイスティックなことを思ってしまって反省する。これからは、こういう言葉を言わないように気をつけて、最後まで己と戦う人間でありたい。ああ、たくさん書いて疲れた。明日も朝から忙しいのに。でも大事なことに気付けた気がするからいいことにしよう。こんなに長いからきっと二度と全部は読まないし、これだけまとまった思考することもない気がするから書いておけてよかった。なお、この話し合いの中で次女が話した友達についてを記録としてなるだけ彼女の言葉そのままに残しておく3歳の頃、友達欲しいなって思ったんだけど、保育園でお友達があんまりできなかったんだよね。で、ずっと寂しかったの。(なんで3歳って覚えてるの)保育園にいて、誕生日きたから覚えてる。それで、4歳になったら友達ができて、嬉しかった。すごく楽しくなった。(それはいつ?)Y幼稚園に入ってから。(お友達ってだれ)SちゃんとIちゃん。(他にも遊ぶ子はいたよね?)遊ぶ子はたくさんいるけど、友達とはちょっと違う。(今はどうなの)今はY幼稚園より友達がたくさんいるからすっごく楽しい。るんるーんって感じ。とにかくお友達が大好き!友達がいればそれでいい。(友達って誰)Kちゃん、Rちゃん、Sちゃん、Eちゃん。(遊ぶだけの子は?)それはY幼稚園の方が多いけど、今の方が友達はたくさんいるの。友達と一緒にいるのが一番楽しい。お友達大好き(家族は?)家族も大好きなの。友達と同じくらい大好き。お友達も家族も、ずーっと一緒にいたいんだ。(そうか、F幼稚園楽しいんだね)うん、すっごく楽しい!(ママはお友達よりメダルをとるなあ。多分パパもお姉ちゃんも)え!?一人で(いるのでも)いいってこと???お友達よりメダルなの????Yちゃんはいやだ。絶対一緒がいい。これこそが、この子のこの子たる所以であろう。そして、神様がこの子をF幼稚園に呼んだ所以であろう。この環境を離れて海外に出ることこそ、親のエゴなのではないか?だって、出ない選択肢もあるんだから。(体操やめる選択肢は無いもの前提してとして話を強引にまとめた私はやはりエゴイストであるが、普段あまりに辛くて体操やめようかな・・と思うことも実はあるのだ。そのくらいには追い詰められているが、私は結局強い(もっとふさわしい言葉がある気がするが)人間なので、負けるくらいなら勝つ!と苦しい方を選んでしまう。ああそうだ、負けるよりは勝つ方がいい。この発想が次女にはないんだな)