発症して4日目のこと。

父とお見舞いへ行くと、
母はベッドを起こして座っていました。

看護師さんいわく、
座っていることがもうリハビリだそうです。


意識もあり会話もできました。
少しふらふらしてしんどいのはしんどいようです。

少しの間話していて、
鼻のチューブがはずれていたことに、父が気づきました。


たったそれだけのことだけど、
父とわたしは喜びました。

看護師さんに髪を洗ってもらったと言っていました。
だから少しすっきりしていたのかもしれません。


相変わらず左が全然動かないと言っています。
今後のリハビリで動くようになるからと言い聞かせ、
しんどいけど、ゆっくりでいいから頑張ろうねと
母に言い聞かせて、名残惜しみながら帰ってきました。


頑張ってほしいなあ。。
数日前に母からメールがきました。

「2本足で歩いて帰るのは無理な気がする」と。


同居の娘であるわたしの気持ちは
「杖などを使用してもいいから、
階段を2本足で歩ける状態、
かつ身の回りのことはひととおり自分でできる状態」まで。

クリアしてもらえたら言うことなしだと思っています。


我が家の環境は3階建て戸建て。
居間は2階で両親の部屋は3階。

家計の都合もあり、
仕事をバリバリしたいし、
そのために資格の勉強もしています。


母がそこまで回復できれば、
わたしも仕事に出れるのではないかという気持ちです。

自分勝手かもしれませんが、
同居でも家計に線引きしている以上、
自分たちの生活は大切です。

親は大切ですが、子の生活もありますし犠牲にはできません。


それでも、歩けるまで回復しなかったのなら
それはそれで仕方がない。
そうなったならそれなりの生活をしていくしかない。

その気持ちも持ち合わせています。

母が一生懸命リハビリを頑張っているのは知っています。


だから、その結果が「やっぱり歩くのは無理だった」なら
それはそれでいいと思っています。
それならそれに添って母のフォローをしていくのみ。


でもメールという事情もあり、
わたしが口べたという事情もあり、
わたしが母に送ったメールは。。。

「必死でやって無理ならそのときは仕方ないやん、
でもそれは今判断することじゃないでしょう?
やってみて無理やったらそのとき考えたらいいよ」

です。
やっぱりキツイですか?

じゃあ他にどう返せばよかったの?


そのメールから2日後に妹が母のお見舞いに言ったら、
その日はメールのことを思い出して
涙が出てリハビリにならなかったそうです。


キツイのかもしれないけど。
頑張ってる人に「頑張れ」というのはよくないのだろうけど。

他に素敵な言葉を添えられるほどに
今のわたしには余裕はない。

母は1月25日をもって、勤めていた会社を退職しました。
もちろん病気→入院のためです。


雇用保険に加入している方が退職した場合は、
基本手当(いわゆる失業保険)が支給されます。

ただし、失業保険は『就職する意思のあるかた』が受給資格を持ちます。

ということは失業保険を受給するためには、
求職活動を行う必要があります。


では、母のように求職活動ができない場合は?



☆疾病・出産・介護などの理由により、
すぐに求職活動をできない場合は
受給期間の延長申請を行うことができます☆

本来の失業保険の受給期間は1年ですが、
この申請により最長3年間延長することができます。
本来の期間とあわせると4年間受給期間とすることができます。


母が再び就業できる状況になるかはわかりませんが、
受けずに失効するのを待つだけではなく、可能性があるならやらないと!


というわけでわたしが申請に行きました。



この申請、わたしのミスもあり少し手間がかかりまして(苦笑)


①管轄のハローワークを間違えた
自宅の管轄のハローワークへ書類を提出するのですが、
管轄を勘違いしていて、違う管轄のハローワークへ持参。
当然受理されず..
必要書類の確認だけすることにしました。
離職票・委任状・申請書が必要と聞いて帰宅。

②後日、管轄のハローワークへ行ったものの書類に不備
先日、異なる管轄で教えてもらった書類をすべて揃えたのですが、
管轄のハローワークへ提出しようとすると、
本人と代理人の身分証明書が必要と言われて撃沈..
また、申請書に母の主治医の氏名が必要と言われましたが、
それもその場ではわかりませんでした。
先日のハローワークでは不要と言われたのに...


結局、郵送での提出も可能で
その場合は身分証が不要になると言われたので
郵送で提出することにしました。
その場合は消印が有効になるとことです。


この申請の期限、
退職日(1/25)から1ヶ月を経過する日(2/24)から
30日以内(3/24)となっています。
1ヶ月間の短い期間ですから忘れないようにしないとですね。
わたしはこの週末で母の主治医を調べて週明けには郵送します!


ご家族が病気退職されたかたの他にも、
ご自身が出産により退職されたり、介護のため退職された場合などにも
有効です(^O^)
倒れた翌日。

家族で母のお見舞いへ行きました。
HCUの面会時間は毎日14時から15時までの間なので
14時前につけるように家を出たつもりが..

車の乗車人数の都合で、
わたしは幼児2人を連れて電車でだったので、
ついたらすでに14時半前..orz


最低限の親戚にだけは母のことを連絡したのですが、
みんながお見舞いに来てくれていました。


子どもはHCUに入れないので、
父と妹と交代で子どもを見ながら、お見舞いへ。

わたしは母の妹とその娘(わたしの従妹)と一緒に入室しました。


昨日に引き続き意識はあり、
ろれつはあまりまわっていませんが会話もなんとかできました。


頭ではわかっていたつもりですが、
たくさんのチューブにつながれた母の姿がショックでした。

何を測っているのかわからないけれど、
ドラマでよく見かける機械を見て思うのは
やはりどこかふわふわした非現実的な感じでした。


が、目の前にいる母の姿はまさしく本物で。

すごく不思議な違和感を感じていました。


寝たきりで左半身は動かず、
右半身が動くので看護師さんに言われ
左腕をマッサージしていました。

顔つきはやはり弱っていました。


日頃からよく話す、叔母と一緒に入室できてよかったと思いました。
わたし1人だったらきっと泣いてしまっていたし、
何を話せばいいか困ってしまうと思ったからです。


叔父・叔母・大叔母が来てくださって
よりいっそう気が引き締まりました。

父も弱っているし、
わたしが支えないと..な!と思いました。
2016年1月10日


22時すぎ頃に母はトイレで倒れました。
本人に意識はあり、偶然近くに居たわたしを呼びました。

「眩暈がして起きれない、動けない」と言いました。
突然の嘔吐・下痢もありました。


わたしはすぐには状況が判断できず、
どうすればいいのかが分からず、
先に寝室へ行っていた父を呼びました。


父も状況を見た後、
救急車を呼ぶべきか判断できなかったため、

わたしが♯7119へ電話し、状況を説明し判断を仰ぎました。
すると、看護師さんが直接救急車を呼べるよう
電話をつないでくださるとのことでしたので、
父と電話を代わり、救急車を呼んでもらいました。


わたしは震える身体で母のほうへ向かい、
母の体を支えて声をかけ続けました。

「大丈夫だから」
「救急車呼んだから、すぐに来てくれるから」
「病院でしっかり診てもらおう」
「元気になって帰ってこよう」

と声をかけ続けました。


頭では『冷静に』と自分に言い聞かせていましたが、
パニック状態でした。


救急車が到着し、母を運び出し、父が付き添い
脳神経外科の病院へ搬送してくださいました。

少しおびえる子どもたちを寝かしつけ、
旦那に落ち着かせてもらいながら、父からの連絡を待ちました。

旦那は父を車で迎えに行く心づもりで
翌日が仕事にもかかわらず、ずっと起きて付き添ってくれました。


結局父はタクシーで帰宅したのですが(苦笑)


父の話によると。。

脳幹出血とのことで、
手術はしない。

出血はすでに止まっていて、
血は時間が経つとともに自然と吸収されるとのこと。

左に麻痺が残るかもしれないとのことで、
それは今後のリハビリ次第となる。

1週間をめどにHCU(高度治療室)から
一般病棟へうつり、その後はリハビリ病院へ転院することになる。


とのことでした。


現実なんだけど、ふわふわ夢のようで。
説明を聞いてはいるけど、実際あまりよく分かっておらず。
これから生活にどんな影響があるのかという不安だらけ。

お金のこと、家事のこと、暮らしのこと。
すべてが自転車操業な毎日だったのに。

母という家族を失い、
看護・介護という負担が増える可能性がみえ、
今後の生活にただただ不安を覚えたけれど。


父の前でそんな様子を見せたくなくて、
「とりあえず今日は寝よう、夜中だから」
「こんなときこそ、しっかり眠らないと」

と自分に言い聞かせるようにして父に伝えて、旦那と寝室へ向かいました。



寝室で、旦那と話をしながら少し泣きました。

その間も居間では父が動く物音がしていました。