住所 天塩郡幌延町字下沼485
幌延町
天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
幌延とは、アイヌ語の「ポロ・ヌプ」(大きい・野原)が「ほろのぶ」と転訛しこれに「幌延」の漢字が当てられ、ほろのべと呼んだ。
下沼の由来は、下サロベツ原野にあるパンケトーを意訳してつけたもので、1926(大正15)年9月下沼駅が開設されてから、この地域を下沼と呼んだがそれ以前は下サロベツと呼んでいた。(豊富町の上サロベツ原野に対応し呼ばれたもの)
サロベツの由来は、アイヌ語の「サルオペツ」(アシの生える川)由来する。
国道40号線沿いの丘の下に名山台展望台パーキングエリアがある。大きな駐車帯があるので分かりやすい。JR宗谷本線の下沼駅から 踏切を渡り豊富方向に約110mほど右手。
1970(昭和45)年8月31日名山台展望台が完成する。ここは簡易食堂や自販機が並び、簡易食堂は旗が出ていれば営業しているそうだ。
パーキングの南端から階段が続き、山の中腹にある展望台まて登る事ができる。名山台の名称は、作詞家の時雨音羽によって名づけられたもので、1971(昭和46)年に発表された同氏作詞の「天塩川」の歌碑が展望台頂上に建っている。
広大なサロベツ原野を見渡す展望台があるのだが、肝心の眺めは周りが木で囲まれている為、この木が邪魔をして視界が狭く眺望を楽しめるというほどではない。
名山台は分かりやすいが、見晴らしの面から行くと、豊富町徳満にある宮ノ台展望台のほうが眺望がいいだろう。
下沼地区は、町の西部に位置し、北は豊富町に隣接している。下沼駅北東部の山林は民有林でほぼ占められており、地域の大部分を占める泥炭湿原には牧草地が形成されている。近くにはパンケ沼がある。
下沼の開拓は、1899(明治32)年の福井団体の移住に始まる。この時15戸が入植したのだが、あまりの過酷な環境に耐えられなく一年足らずで離散してしまった。1900(明治33)年には福井県今立町大谷(現・福井県越前市大谷町)出身の山田権左衛門が地主として入植した。
山田氏は土地貸付を受けると多数の小作人を移住させ、開拓を始めた。山田氏が貸付を受けたのは100万坪(約330ha)とも言われているのだが詳細はわからないという。しかしこの広大な山田農場には、その後沢山の入植者が入り、1911(明治44)年には総戸数47戸にまで増えていた。1902(明治35)年天塩市街地~下サロベツ間の道路が開通する。しかし道路とは名ばかりの刈り分け道で、泥炭地は3尺(約90cm)の丸太を並べた陸橋を架けただけだった。1907(明治40)年4月に駅逓が設置されたが、1909(明治42)年に下沼で発生した大火により焼失した。1912(明治45)年には官設の駅逓所として再建されている。さらに山田権左衛門本宅にも郵便継立所が設置されている。
大正初期頃までは、天塩から船でサロベツ川、オンネベツ川を遡り兜沼やその他方面に物資を運んだようで陸路より水上輸送が便利だったことがわかる。
大正に入り、山谷佐太郎、山田権左衛門、見延伝七、岡崎由太郎、菅八兵衛、得永庄太郎らによって澱粉工場が下沼で設置され、1919(大正8)年頃まで続けられた。当時の澱粉の生産は幌延でも最も多く「澱粉景気」が起こった。他にも豆類も高く取引されており、山谷佐太郎の商店で豆を買い集め、船で天塩まで運び大きな利益を上げたようである。1920(大正9)年には、現在の国道40号線にあたる札幌稚内線が地方費道として、国道232号線にあたる留萌幌延線が準地方費道として認定を受けた。1926(大正15)年9月天塩南線の幌延~兜沼間が延伸開業し、下沼駅、豊富駅、徳満駅、芦川駅を新設する。音威子府~幌延~稚内間が全通したことにより、当該区間を天塩線に改称する。 下沼駅が開業したことにより駅前付近には商店もできた。山谷商店・高橋徳蔵が酒・菓子などの雑貨店、山田操がたばこ・荒物店。昭和初期には河野寛治が雑貨店を開業した。
山田権左衛門は、入植した年から総代人を務め、他にも増毛外三郡農会代表者、下サロベツ駅逓管理人、幌延村衛生組合長、増毛外三郡畜牛馬組合会議員、増毛外三郡農会議員、組長、部長、村会議員など数々の要職を歴任してきた。山田氏は教育にも熱心で、1924(大正13)年温内尋常小学校(後の下沼尋常小学校)の校舎移転改築の際、自己の土地1500坪を寄贈している。1932(昭和7)年には、現在のPTAに相当する児童保護者会を創設し会長に就任している。