住所 芦別市黄金町764番地 黄金水松公園
芦別市
芦別市の由来は、市域南端から中部にかけて南北に貫流する芦別川に由来し、「芦別」とはアイヌ語で、「アシュ・ペツ」(切り立つ・河)に由来する。
黄金町の由来は、豊穣の部落の意とのこと。字名改正前は上斑渓と呼ばれていた。パンケホロナイ川の上流にあたるからである。1939(昭和14)年10月部落字名改正により黄金町となった。班渓は、アイヌ語の「パンケ」(下・下流の意)を漢字で表した。
旭川と芦別を結ぶ道道4号旭川芦別線の新城町郵便局の交差点から芦別方向へ約850mほどの交差点(黄金水松公園の看板)を斜め左に入り、道なりに約2.5kmほど左手に駐車場がある。
2001(平成13)年のコアサンプル調査で樹齢1700年と推定されたイチイの巨樹。
芦別市黄金町の黄金水松(こがねみずまつ)公園内にあるイチイの巨木で、北海道の天然記念物に指定されている。
イチイは、北海道ではオンコと呼ばれる常緑針葉樹で、成長が非常に遅くこの木の巨木を見ることは稀だという。
水松の高さは21m、幹周は6.2mでイチイの木としては全国8位、道内2位の太さを誇っている。
公園は、きれいに整備されていて6月にはお祭りもあるようだ。
このイチイの木には、伝説も語り伝えられており、古くは、上川と空知のアイヌの人々が交流の場の目印にしたとも言われ、上川アイヌの首長が、この木に住み着いていた、人に危害を与える黒蛇を退治したという伝説も残っている。
案内板
北海道指定文化財
(平成14年3月29日指定)
天然記念物黄金水松
樹種 イチイ(Taxus cuspidata Sieb.et Zucc) 別名オンコ、アララギ、漢字で一位、水松とも書く
樹高幹周 620cm(イチイでは全国8位の大きさ)
樹 高 21m
推定樹齢 1700年(2001年7月計測値)
沿 革
昭和 7(1932)年 帝室林野局保存木も指定
昭和31(1956)年 北海タイムス社主催の北海道文化財百選5位に入選
昭和37(1962)年 芦別市指定文化財に指定
昭和43(1968)年 北海道百周年記念事業で北海道名木美林に選定
昭和62(1987)年 北海道記念保護樹木に選定
平成 2(1990)年 読売新聞社主催の新日本名木100選のベストテンに入選
平成14(2002)年 北海道の単木で初めての指定文化財(天然記念物)となる
寄贈 芦別鉱業株式会社
オンコの奥には細谷徹之助水松歌碑がある。
1982(昭和57)年8月建立された。
他にも蛇塚が建立されていたことがある。この黄金町の丘陵地帯は戦後開拓の際に、農地を拓くため火を入れて草木を焼き払った。そのとき無数の蛇の骨が大量に見つかった。この蛇を慰霊しようと立ち上がったのが地元の細谷徹之助氏である。黄金蛇塚護持会を設立し、1982(昭和57)年8月に黄金水松公園内に塚を建立した。石碑は自然石の下部をくり抜き、その内部に班渓幌内川支流の遠藤の沢から採取した蛇紋岩を入れた。1985(昭和60)年に細谷氏の別荘である「からまつ荘」を建てた際に蛇塚が別荘敷地内に移設されている。
常磐は、1893(明治26)年に開拓が始まったが、パンケホロナイ川上流の黄金町は、1899(明治32)年に、新城町は1900(明治33)年に区画割りが完了し開拓が始まった。1939(昭和14)年10月部落字名改正により黄金町となった。もとは芦別村の一部で、当時は上班渓と呼ばれた。成立時の世帯数は129戸、650人。入植当時この辺り、パンケホロナイ川流域はパンケ幌内と呼ばれていたが開拓が進み、部落の形成が整い、下パンケ(現・常磐町)、上パンケ(現・黄金町)、上パンケ御料地(現・新城町)と命名した。1900(明治33)年4月上班渓(現・黄金町)に富山県人向田伊三郎(干場政五郎の小作人として)が、パンケホロナイ川と中の沢の合流付近に10余坪ほどの掘立小屋を建て入植したのが始まりである。翌年数戸が入植し開拓が本格化していく。6月歌志内村より分村「芦別村」が誕生する。北海道炭鉱鉄道会社上班渓御料地で枕木用材を伐採、芦別林業の起源となる。盤の沢、中の沢において砂金の採掘が盛んになる。入植当時は原始林を切り開き、伐木は火をつけて焼き払いその後に作物の種を撒いた。作物は菜種、小麦、小豆などの商品作物のほか、裸麦、馬鈴薯、イナキビ、トウモロコシなどの食用作物も作られ、1901(明治34)年4月上班渓御料地に石川県人の河戸寅吉他2名が移住する。1902(明治35)年には大石八三郎が水稲の試作も試みている。食用として河川にいるイトウ、ヤマベ、ウグイなども常時豊富に獲れ、秋にはサケ、マスも産卵のため遡上してきた。春にはふき、わらび、タケノコなども豊富にあり採取できた。1901(明治34)年細谷林之助が黄金に入植する。同年、片山清一郎、大石八三郎ら数戸も入地してきた。この頃、何はともあれ道路がないと農産物を運んだり生活物資の運搬にも困ることから道路の整備を希望したのである。1906(明治39)年8月村長である渡部哲網が北海道庁に下斑渓~上斑渓~新城~音江村に通じる道路開鑿についての上申を行った。上班渓から御料地が独立し、郷里の名を取って新城とする。1911(明治44)年4月下班渓・上班渓の山沿い地帯を払下げを受けて村有林とする。
1913(大正2)年9月部落・字名改正する。1923(大正12)年4月一級町村制施行。部落名字名改正する。黄金は字班渓となる。その後黄金地区の道路整備は進んだが、下斑渓~新城への道路は1916(大正5)年に本格的な工事に入り、1917(大正6)年11月常盤~新城間の道路完成。現在とほぼ同じような道路となった。1918(大正7)年三又の沢が上班渓から独立する。当時は植民道路と呼ばれたようである。この植民道路に沿って芦別駅から深川駅に通じる鉄道建設(芦別線)の意見も出て、1925(大正14)年2月深川、芦別、音江、神居、神楽の町村長が署名を持って建設請願の運動に入り、1926(大正15)年3月衆議院で請願は採択された。 1931(昭和6)年8月鉄道省建設局の手により全線にわたる実地調査が行われたが実現はしなかった。この頃の農産物の出荷は、最初は人力だったが、駄鞍(馬の背に乗せて運ぶ)、馬車となったが下斑渓(現・常磐)の空知川沿岸まで運んで商人に引き渡し舟積で滝川方面に送られた。1932(昭和7)年7月「黄金水松」を保存木に指定する。1939(昭和14)年10月部落字名改正により黄金町となった。1941(昭和16)年4月町制施行。1946(昭和21)年黄金地区電化となる。1947(昭和22)年三井黄金抗開鉱。人口が急増する。 1949(昭和24)年7月三井芦別鉱業所黄金鉱~芦別駅間の索道・石炭積込ポケット設置。1953(昭和28)年4月市制施行により「芦別市」誕生する。1955(昭和30)年9月字名変更する。字黄金・常磐・豊岡の各一部をもって黄金町となる。成立時の世帯数は454戸、2471人。1956(昭和31)年10月三井芦別鉱業所黄金抗で選炭機が全焼する。1958(昭和33)年9月芦別線の現地調査実施。1962(昭和37)年2月芦別線の第一工区の芦別~常磐間(三井黄金入り口)の用地を確保する。8月黄金水松を市文化財に指定する。1963(昭和38)年3月芦別線の二工区常磐~新城間の買収交渉が妥結する。11月常磐~新城間の着工式が行われる。1964(昭和39)年芦別線の第一工区と第二工区の路盤工事着工する。1967(昭和42)年3月芦別線の第一工区と第二工区の路盤工事完工する。第三工区の新城~新城峠間の路盤工事を開始。1968(昭和43)年2月第四工区である新城峠以北の用地買収を一部で開始する。1969(昭和44)年3月第三工区までの路盤他の工事完成する。工事は芦別~新城までの路盤工事がほぼ完成し、新城~納内間の用地も一部が確保されていたが、旭川市内の農家の反対や石炭需要の低下と、沿線予定地の炭鉱が閉山したため計画は、1972(昭和47)年7月予算配分が無くなり工事が凍結。頓挫した。1971(昭和46)年9月三井鉱山(株)黄金坑を分離し、新北振炭鉱に引き継ぐ。1972(昭和47)年新北振炭鉱黄金坑にて坑内火災発生する。5月新北振炭鉱(株)閉山となる。これにより人口激減する。
1990(平成2)年黄金水松が新・日本名木百選に選定される。2002(平成14)年黄金水松が北海道指定文化財天然記念物に指定される。