文句は言うな!というけれど・・・
そりゃ、文句いいたくなるよ。逆の立場をかんがえてごらんなさいよ。ここに(アメブロに)書くぐらい大目にみてよ。だってわかんないもん「仏教とはなんぞ?」何をしたら、辞めなくてはいけないのか?何をしなかったら、辞めなくていいのか?どう思ったら、辞めるまでにいかないのか?それとも、そう(軽く)思える自分はどこにいるのか?いろんなことを重く受け止め、話をきいて、日々都合のいいように言い換えて「前に行ったことと違うけど?」問題で、理解できず(そりゃ理解できない方を責めちゃいけなくない?)はんかくさいね・・・(北海道弁ね)って思われ続ける。。。そりゃ、おかしいだろう?って、きっと思うしおかしくない!って思っているってことは、お寺のルール中には、ものすごく「なぁなぁ」な部分があるってことを思ったし、「なぁなぁ」って言えば悪く聞こえるけど「人間だから、そういうこともあるよ」って結局、そう思わなきゃいけない真実があってそれを「赦せ」と道元さんたちはきっという。だけど、どこかにも書いてあったけど「一生かなしむべし」みたいなくだり。悪いことをしたら、やっぱり、仏教って辞めなきゃいけないんじゃない?と思うしどう考えたら、そう思わなくて済むんだろう?って気持ちも整理つかず・・・アダルトチルドレンとかなんとか精神病のこと言っていたけどそう自覚していたのなら、どうして修行に励まなかったのか?スマホばかりで遊んでいたのか?そういった当たりが全然、謎だったし、その謎をとりたてて、誰に言えるわけでもない。だけど、やっぱり大泣きしてしまう日もたくさんあった。「なんで、あんなのこといったのに、何もしないのか?それは嘘だったんじゃないのか?嘘のくせになぜ偉そうにお坊さんぶれるのか?」というのが全然分からない日がとてもたくさんあった。。。。あったから、ここに書いてしまっていたんだしあったという真実は隠しようもできないしたくさん泣いていた日々はもう過去なのだから「あった」という真実はそこにあったわけだよ。特定の誰かの過去の中に「大泣きさせる日々」を送らしていたのはどんだけ、悪だったのか?っていうことをもっと自覚しなきゃいけないんじゃないかな?ってやっぱり思う。前後際断は、「過去のことを忘れろ」という意味ではなくて「過去ー今ー未来」と時間とともになっていく過程の姿をいう。『前後祭断だよ!(俺のことは忘れろ)』といったのは、やっぱり、間違った解釈だしそう言いたかったのあれば、言い訳にしかすぎない・・・阿耨多羅三藐三菩提・・・あげているんだろ?これ・・・意味考えているのかな?そういう矛盾に本当に、モヤモヤが全然とれなくて・・・でも、そのモヤモヤに対して、勉強してみたら「戒だったのはお前だ」ってやっぱり思ったりもする。それが、「文句」か「悪口」か?と言われてたら「文句」であり、「悪口」かもしれないけどそう思わせてしまった真実は文句でも悪口でもないんじゃないだろうか?自然だよ。ただそれだけなんじゃない?そういうことを、仏教は全体的に言いたいのだと思う前後際断、結果自然成、因果応報、時節因縁。諸行無常。表裏一体。放下着。知足。。。「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて冷しかりけり」「峰の色 渓の響きも 皆ながら 吾が釈迦牟尼の声と姿と」そういうことなんだね。きっとね。