考察を書くなんて予告しといて何日も経っちまった。。。

■考察その1 フルバリューとディスカウント
いまコミュニケーションの勉強をしていて、そこでは相手をフルバリューに扱うってことが重要だとされている。
フルバリューの反対がディスカウント。

それで僕はその時、周囲の大人たちにフルバリューに扱われたのかそれともディスカウントに扱われたのか。

本人としては、「なるほど。そういうもんか」と納得したように、
ディスカウントに扱われたなんて思わなかった。
誰もまともに取り合わない現実を目の前にして、
それを受け入れて自分が生きる方法を考えるしか無かったと思う。

その頃はフルバリューもディスカウントも知らなかったし、そんな基準が自分の中に無かった。
いま思えばそれはディスカウントだったかもしれないと思うだけ。
ひょっとしたら親なんかはそれでもフルバリューに扱っているつもりだったかもしれない。
親は戦争で死ぬ思いをした世代で、子供時代を苛酷な環境で過ごした。
僕なんかは飢えることも不自由することもなく暮らしていて、
そういう生活を提供することが親にとってフルバリューだったかもしれない。

僕にとっては、フルバリューでもディスカウントでもなくてただ現実があるだけだった。
そういう基準を知ってしまった今の方が、ディスカウントされた時相手に不満を感じるようになって
苦しさが増えたかも(苦笑)

■考察その2 どう受け取ることを学んだのか
周囲の大人はまともに取り合わなかった。
だから自分もその問題にはまともに取り合わないことにした。
誰も相手にしてくれなかったので、相手にされるほどのことではないんだと納得したんだと思う。

それからもたまには、いじめみたいなものもあったかもしれないけど、
僕としては無視するか適当にやり過ごすことにしていた。

なにか現象が起こった時にそれをどう捉えるか、
その捉え方は外部から植え付けられることが殆どだと思う。

どういうことかと言うと、
僕の言葉で説明するのは難しいので小林正観さんの本から引用して説明します。

つまり、子供が転ぶと親がダーッと駆け寄っていって、「ああ、痛いよね。大変だよね。つらいだろうけど、ここで泣いちゃダメよ」と言い聞かせる。

すると、子供は「これを痛いと言うんだな。この痛みは泣くぐらいの痛みなんだな。普通だったら、この痛さで泣くべきものなんだな」と学習するわけです。

小林正観著「宇宙を味方にする方程式」P134より

このことは以前からもずっと感じていて、テレビのドラマや、ニュースなどの
何気ない言葉の中に注意していればいっぱい見つけることが出来る。
(ので気をつけた方がいいと僕は言いたい。)

僕は放っておかれることで、たいした事だと思わずにすんだ。

■考察その3 もし周囲が違う反応をしていたら・・・
確かに、たいした事ではないと思えたかもしれないけど、
このことで僕は親や先生と完全に分離したのだと思う。
(思い起こせば、きっかけはこの問題だけではないと思うが)
その時もしフルバリューに扱われていたら、、、

親や先生に大切にされていると思えたり、一体感、安心感を得られて
その後の自分の人生を大きく変えたかもしれない。
でもそれは仮定の話なんで、なんともいえないですが(笑)


とりあえず、いま考えられるのはこんな所かな。。。