『今日、桃子に会いにいくね。』
重たい瞼の間からあの人とのトーク画面を見た瞬間にもやが消え去った。
あの人からのメッセージは他に何も言葉はなくて、たったそれだけ。
それだけの言葉なのに、自分の心が晴れやかになっていく。
レッスンがあるたびに憂鬱だった朝。
朗報だよ。
今日だけは好きになれそう。
カーテンを開けば、軽快な音で桃子の素敵な一日の始まりを祝福してくれる。
パジャマからシンプルなワンピースに着替えたところで来客を知らせるチャイムが鳴った。
もう来てくれたんだ
胸が高鳴るのを感じながら玄関へと向かう。
ろくに確認せずにすぐにドアを開けた。
そのまま勢いよく目の前の人物に抱きつくと「うおっ」という太い悲鳴が上がった。
顔に似合わない声だなあ、と思わず笑ってしまう。
「今押したばっかりなのに笑」
「だって、麻衣姉さんに早く会いたかったんですもん。」
「えっ、そうなのー?嬉しいなぁ笑」
ちょっとまんざらでもなさそうにおちゃらける麻衣姉さん。
桃子の尊敬する、大好きな先輩。
ふと視界の端に大きく膨れたレジ袋が見えた。
麻衣姉さんから一旦身を引いて、麻衣姉さんが持っているレジ袋を凝視した。
「それなんですか?」
麻衣姉さんは「ああこれね。」と軽くレジ袋を持ち上げた。
「今日しばらく暇だからさ。せっかくだし朝ごはん一緒に食べたいなって。」
「え……」
「げ、もしかしてもう食べちゃった?」
「あ、いや!まだ食べてないです。ただ、なんか……嬉しくて。」
麻衣姉さんは一瞬驚いたように眉をひそめたが、すぐに「そっか」と顔を綻ばせた。
「じゃあキッチン使わせてもらっていいかな?」
「え、作るんですか?ていうか、作ってくれるんですか?」
「桃子が迷惑じゃなかったら。」
「いやいや、そんな、迷惑だなんて……むしろありがたいですけど……」
「じゃ、桃子も一緒に作ろうよ!私下手くそだから助けてくれる?笑」
麻衣姉さんは料理が得意なのに、こうして桃子のことを立ててくれるあたり、麻衣姉さんの優しさがひしひしと伝わってくる。
当然NOと言えるはずもなく、 " 麻衣姉さんと朝ごはんを作る " という不思議な朝が始まったのだった。
桃子も麻衣姉さんもメンバーの中では料理が得意な方に入るから、ご飯の支度はスムーズに進んだ。
ちなみに下手なのはよだとか……生田さんとかも酷かったらしいけど……
それを麻衣姉さんに伝えると、
「まあ……与田ちゃんと生ちゃんは食べる専門だからね。」
とフォローになっているような、なっていないような返事が返ってきた。
麻衣姉さんの指示が的確で、ご飯を炊いている間にも続々とテーブルに彩りが添えられていく。
「いただきます!」
「いただきます。」
「………美味しい!」
久々の、しかも麻衣姉さんと一緒に作って食べる朝ごはんは今までのご飯の中で一番美味しかった。
どんなに高いお肉とかお寿司とかよりも、絶対に今日の朝ごはんが1番美味しい。
知らぬ間に笑みが溢れていたようで、向かいに座っている麻衣姉さんがくすくす笑いながら白米を口に運んだ。
「そんなに美味しい?よかった〜。」
「はい!すごい美味しいです。」
朝ごはんを食べた後も麻衣姉さんはずっと桃子のそばにいてくれて、たわいもない話をしていたらあっという間に日が暮れてきてしまった。
ずっと隣に座っていてくれた麻衣姉さんが「そろそろ行かなきゃ。」と言って立ち上がる。
大好きな麻衣姉さんが行ってしまうのは悲しくて、『ずっと一緒に居てください』って引き留めたかったけれど、ワガママを言って麻衣姉さんの困っている顔を見るともっと悲しくなる。
だからどうしていいかわからなくて、何も言葉にできずにいると、麻衣姉さんがベランダの方を見てふっと笑った。
「ねえ桃子、おいで。」
どうしていいかわからなかったから、麻衣姉さんに導かれるがままにベランダの方へ向かった。
桃子の部屋のベランダはちょうど夕日が真正面に沈む方角にある。だから普段は日焼け対策のためにカーテンを閉め切っていた。
でも麻衣姉さんが「太陽光って体にいいんだよ。」と言うので今日だけはカーテンは全開にしていた。
ここの寮に来てから初めてベランダに出たかもしれない。
「ほら桃子。綺麗でしょ。」
そう言って麻衣姉さんは眩しそうに手を翳す。
ビルとビルとの隙間にちょうど夕日があって、周りのビルやら車やらに光が反射してまるでイルミネーションのようにキラキラと輝いている。
桃子は東京の慌ただしい感じが苦手だけど、遠くに聴こえる喧騒がより一層この景色を引き立たせている気がする。
恐らく鹿児島では見られない景色だろう。
「実はね、与田ちゃんにお願いされて来たの。」
「えっ?」
麻衣姉さんは太陽の光が目に入らないよう左手をかざしながらも、目の前に広がる景色を眺め続けている。
「与田ちゃんには言わないでって言われたけどね。『桃子のことを助けてください』ってお願いされたの。」
「でも……なんでわざわざ麻衣姉さんに?」
麻衣姉さんは口を開きかけ、少し顔を顰めた。
一応よだは『言わないで』と言っているからか、これ以上吐露すべきかどうか迷っているのだろう。
桃子も無理には聞き出したくなかったから、慌てて否定した。
「あの、嫌なら言わなくてもいいですよ。」
「あ、ごめん。なんでもないよ。」
声のトーンはいつも通りだけど、少し眉間に皺を寄せながら桃子の方を向いた。
「与田ちゃんがね、『私じゃ桃子の力になれないから。それよりも白石さんの方が、桃子もきっと喜びますし。』って。」
「え……」
一瞬頭が真っ白になった。
よだとは『逃げ水』の時に一緒にセンターを務めたが、特別仲が良いわけではない。
もちろん仲はいいのだが、お互いにいつも一緒にいるメンバーが違うから、普段はあまり接点がなかった。
そんなよだが桃子を気にかけてくれていたことも、麻衣姉さんに助けを求めていたことも、全てが驚きだった。
いよいよ日が暮れてきて、さっきまではビルの間にあった太陽がギリギリ見えるくらいに沈んでいた。
太陽の周りはなんだか切ない橙色に染まっているが、少し視線を上げればやや紫味がかかった青空が広がっている。
「桃子。これが幸せって言うんだよ。」
目が合うとニコッと微笑む麻衣姉さん。
桃子が大好きな、安心する笑顔。
麻衣姉さんは街並みに視線を戻した。
「当たり前だけど、幸せって目に見えないんだよ。私もそうだし、与田ちゃんだって、三期のみんなだって。
なんなら世界中のどこにも見える人なんていないしさ。」
「………」
「でも、幸せって意外と近くにあるんだよ。例えばこれ。」
そう言って麻衣姉さんは目の前に立ち並ぶビルを指さした。
「この景色が見られただけ、桃子は幸せ!私も桃子と見れて幸せ!」
麻衣姉さんはふっと微笑んだ。
「朝ごはんが食べられて幸せだったよね。お話たくさんできたのも幸せだよね。」
「幸せ……」
「うん。それに桃子には心配してくれる仲間がいるじゃん。それって、すっごい幸せなことなんだよ。」
そっか
こんなにも幸せは近くに隠れていたんだ。
「幸せっていつも近くにあるんだよ。気づいてないだけで。」
そういえば、と少し前にれんたんが言っていたことを思い出した。
桃子って、幸せに気づきづらいよね
桃子が幸せそうなとき、
いま桃子幸せだよ!笑ってるよ!って
れんかが教えてあげるね
れんたんが何回も『桃子いま幸せだよ!』って言ってくれたことが今の麻衣姉さんと重なった。
麻衣姉さんもれんたんと同じことを桃子にしてくれているんだ。
こんな桃子に。
「桃子、麻衣姉さんといれて幸せです。」
「おっ。」
「桃子、美味しい朝ごはん食べられて幸せ。」
「うん。結構上手に作れたよね。」
「桃子、こんな綺麗な景色に巡り会えて幸せ。」
「ほんとに綺麗だよね。東京ならではの景色って感じ。」
突然の幸せ告白を、何度も相槌を打ちながら聞いてくれる麻衣姉さん。
朝ごはんも、この景色も、麻衣姉さんとの時間も、改めて幸せだと感じるが、
もう一つ幸せだったことがある。
「あと……」
「うん。」
麻衣姉さんは催促するでもなく、ただじっと桃子の言葉を待ってくれている。
「よだが桃子のこと考えてくれてたのも幸せ。」
麻衣姉さんのことも大好きだけど
よだのことも好き
「ね。桃子幸せ者じゃん。」
大好きな麻衣姉さんのその一言でぶわっと涙が溢れた。
涙を堪えていたつもりはないのだが、次々とベランダの床に水玉模様が描かれていく。
サッと麻衣姉さんが近づいてくる気配と共に、桃子は大きな温もりで包み込まれた。
麻衣姉さんが桃子の背中をあやす様に叩きながら、ゆっくりと話し出す。
「与田ちゃんのこと、好きなんでしょ?」
「えっ……」
誰にも言っていなかったのに、これからも封印しようと思っていた気持ちを言い当てられて驚いた。
思わず麻衣姉さんの顔を見上げると、麻衣姉さんは「やっぱり?」とからかうような笑みを返してきた。
「なんで、わかったんですか?」
「うーん」と悩んでいたかと思えば、答えは決まっていたかのようにすぐに悪戯っぽい声で告げる。
「女の勘…かな。」
「絶対それ言いたかっただけじゃないですか。」
麻衣姉さんはくくっと笑いながら、少し身を後ろに引いた。
麻衣姉さんの完璧すぎるほどに整った顔がニコッと微笑んだ。
「無理に、とは言わないけど。その気持ちを閉じ込めておくのは勿体ないんじゃないかな。」
「でも……」
桃子が言葉を濁すと、麻衣姉さんは少し声のトーンを落とした。
「実は、私も七瀬に告白したことあるんだよね……笑」
「え!?」
「ま、振られちゃったけど。今はスッキリしてるよ。」
「………」
「多分、あの時勇気を出さなかったら一生後悔してたと思う。」
七瀬さんは半年くらい前に卒業してしまって、今はもういない。卒業コンサートでよだが号泣していたのを鮮明に覚えている。
桃子も麻衣姉さんが卒業してしまったら、と考えるたびに涙が出そうになる。
それが近い未来にある、という事実から目を逸らし続けている自分がいる。
「まあ、今でもちょいちょい仕事とかで会うんだけどね。…あっ、この話内緒ね。」
麻衣姉さんが少し慌てるように口に人差し指を立てた。
「もちろんですよ。じゃあ、桃子の話も内緒でお願いします。」
桃子も同じように口に人差し指を当てると、麻衣姉さんはくすっと笑って小指を桃子の前に持ってきた。
桃子も小指を麻衣姉さんの小指に絡めた。
「二人の約束だよ。」
「はい。」
「もし嘘ついたら?」
「眉毛全剃りにします。」
「ぜんぞっ…」
ひひひひっと笑う麻衣姉さん。
なんだか、麻衣姉さんが笑ってるのが嬉しくて自然と笑顔になっちゃう。
「麻衣姉さん。」
「なーに桃子。」
「桃子、幸せです。」
麻衣姉さんはにっと笑った。
「そうそう。その調子。」
そう言ったかと思えば急に目を見開いて「あっ!」と叫んだ。
「仕事!忘れてた!行かなきゃ!あっ、今日はありがとうね!がんばってね!」
簡単な言葉を捲し立てて、麻衣姉さんはベランダから飛び出てバタバタと玄関まで走っていった。
その背中を見送りながら、東京の街並みをもう一度じっくり眺めてみる。
太陽はもう見えなくて、太陽が沈んで行ったであろう場所だけがほんのり黄色になっている。
ネオンやら街灯やらがキラキラ輝いて、道を走る車もはっきりと見える。
この広がる街並みのどこかにれんたんも、みなみんも、生田さんも、飛鳥さんも、みんないる。
よだも、どこかにいる。
「桃子、よだのことが好きなんだよ…。」
今もレッスンに励んでいるであろう彼女に向けて、届くはずもない言葉を口にする。
当たり前だが言葉が返ってくるわけでもなく、ただ街の喧騒が聞こえてくるだけだった。
――――――――――
よだもも不足すぎて死んでます。
おしまい。