先天的要因と後天的要因、どちらが決め手になるのか。色んな分野でちょっとした問題として話の種になる。遺伝と努力みたいに言い換えてもいい。このような話が出ると自分はちょっと残念に思ったりする。それは自分が先天的に優勢でないことが口惜しくなるからとかではなく、いや、それもあるからかもしれないが、基本的にそのような話へ流れると物事の仕組みや方法論に向き合う話にならなくなるからだ。


物事の仕組みや方法論と向き合っていると、事実そのものを見極めようと努めることになる。それは自身の能力がどうのという話ではない気がするのだ。見極められる直観的なひらめきというのは才能なのかもしれないが、そのひらめきが生まれるためにどれだけ外堀を埋めていることだろう。そして事実が明らかになる時、それは「一般化 」する。一般的な知見は誰でも利用可能だ。そこに特別な才能など必要はないのだ。


そういう真摯に向き合うことを放棄した時出てくるものが先天的後天的の話のように思えてならない。それは何か面倒なことには蓋をしてその思い思いの信仰の告白の様相を呈する。


難しいことは抜きにして、才能の路頭に迷ったら江戸時代の俳人の言葉を思い出そう。


「器用さと稽古と好きと三つのうち好きこそものの上手なりけれ 」