東日本大震災の時にロジ(事務調整担当)で石巻に行ったこと | ブログタイトルを入力

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某Twitter(”X”に改称)で、1月1日の地震の災害医療チームのロジの重要性が話題になっていました。

2011年8月に私がロジで行った時のことを某mixi(笑)に書いたものがあったので、こちらに出しておこうかと思ってコピーしました。写真とかはありません。あと、「ロジが重要」って感じではないのですが、ロジがどんなことをしているかは何となくわかるかと思います。

 

その時のタイトル「ナイスミディ~女3人支援の旅~」…では、どうぞ。

 

・・・などというチャラけたタイトルをつけてしまいましたが。
 4泊5日で、宮城県石巻市に支援活動に行ってきました。

<きっかけ>
 そもそものきっかけは、6月6日のNEWS ZERO。
「震災から3ヶ月」ということで、翔くんが被災地(宮城県東松島市)に行った時の映像。

「え?地震(というか、津波)の1週間後とかじゃないの?」

そう思ってしまうような、一面の瓦礫野原。
スーパーは薄暗いけれど物はちゃんとあり、ガソリンも普通に入れることができ、私たちの生活はすっかり「地震から3ヶ月」になっていた。
なのに、テレビの中の、黒っぽい平地。被災直後と何も変わらない。

その翌日、ウチの組織で陸前高田市での義捐金申請受付業務従事者の募集がありました。2週間くらいだったでしょうか。
現地での受付、その他の業務ということで、この「その他」には、瓦礫撤去のお手伝いなんかも当然含まれているんだろうな、と思いました。

でも、行きたい。
一応夫に「応募していいか」とメールしたら「問題ないよ」とあっさり承諾されました。
職場を通しての応募なので、校長の承諾も得て。

でもね、「来なくていい」って言われたんです。
「応募者多数につき」ということだったので、無理して人数の無い所属のしかも家庭責任のあるか弱い(笑)女性職員が来なくても…ということで。

それならそれでいいことなので、その話はそれで終わりました。

それから何週間か経って、募集元の担当から電話がありました。
「実は、へらさんのところの直属の部でも、現地に行ってくれる人を探している。その担当から『ウチの部で誰か手ぇ上げた人はいないか』と聞かれている。教えていいか」

ウチの学校の直属の上ってのは医療とか福祉担当なのですが、その部署では震災直後から保健師を派遣している、その保健師と組んでくれる事務担当が必要とのこと。
「あ、かまいませんよ」と返事をしておきました。

その後、行ける日程の確認のメールがきて、一応3つくらい「この期間なら行けます」と返信したところ、かなり前のめり気味で部の担当から電話。
5ナンバー最大サイズの車両を運転しなくてはならないということで、私としては自信が無い旨を伝えたのですが「いや大丈夫。大丈夫ですから。アクセル踏めば動くのは同じですから。ナビもついてます」…ああ、ガチで人材に困ってんだな…と思い、正式に承諾しました。
ちなみに一応夫にも確認したのですが、やはり「問題ないよ」…私に「家庭的責任」なんてあったのでしょうか。

8月2日に説明会兼事前の顔合わせがあり、あとの2人とさくっと赤外線で連絡先を交換し。
8月7日の朝、仙台に向かいました。

8月7日
初日は、前の班から引継をして、泊るだけです。
前の班は午前中は業務を行い、市役所に引継をして、仙台に向かいます。
引継の時間は午後4時。場所は「だいたいいつもここだから」という店を聞いていたのですが、説明会の後で調べたら「7月末をもって閉店」…波乱含みです。
まあ、引継場所はどうにでもなるとして、午後4時の引継のために何故朝から向かったか。
せっかくですもん。昼食に牛タンをいただいて、その後で七夕を見ました。
もう、すごい人で人で人で人で…。
駅周辺は七夕の飾り付けが延々とあるだけで、これは、愚息なんか連れてきた日には
「ねえ、これってこれがずっとぶら下がってるだけ?」
と、開始3分で「もう帰る」が出たかもしれませんが、一応1時間ほど歩いてみました。
「応援してます」関係がさすがに多かった。

がっつり歩き疲れて、どこでもいいから座りたい…。
ということで、いつもの引継場所以外の、「ここも使ったことがある」喫茶店へ。
コーヒー1杯1,050円。・・・銀座かよ!
4mもの高い天井、宝石のように並ぶ1000客のカップ。だそうですが、
「これ、地震のとき大丈夫だったんかなあ・・・」
優雅なのかもしれませんが、実は私の実家は一時期ティーカップ道楽だったことがあり。
コーヒーが"家で使ってた"ジノリのイタリアンフルーツで出てきても、1,050円も出す気にはなれないわけで。
引継に書いとけよ、「高級店」ってさあ。

午後3時を過ぎ、2名の保健師から「到着しました。七夕見物してきます」のメールがあり。
4時前には引継場所を指定され、向かいました。
1時間くらい引継があり…事務の引継は大したことないのですが、保健師の引継は時間がかかるので。
その後、車両の引継で駐車場へ。
でかーーーーーー。
これはやっぱり「男旅」でしょうよ。私、運転席に座るのに「よじ登り」なんですけど。
椅子をギリまで上げて、サイドブレーキが無いけど?は?左足許?
こうして
1.慣れないでかい車
2.他人が乗っている
3.知らない街の駅ビル地下から出る
4.ナビがボロい
5.音楽が無い
嫌いな条件を多数取り揃えて、宿泊場所に向かったのでした(そして案の定逆方向に出たわけです)

「被災地を自分の目で見て、帰ってから周囲の人に広める」というのも大切な業務です。
また、保健師はケース(対象者)の気持ちに寄りそうためにも、ある程度の知識が無いといけません。
でも、石巻まで行く時間は無いので、一番近い「仙台市岡田」周辺に行きました。
車を止めたのは「夢メッセみやぎ」ですが、そこに至るまでの道の方がはるかに津波の跡が残っているのですが、運転手なので撮影できず。
何も無いのは片付いたから何も無いのであって、震災直後、そこには壊れた住宅や流された車、当然その中や外に死体が「普通に」転がっていたのです。
途中に「がんばって営業再開」とか書かれたラブホがあって。
3月11日の午後、利用していた人もいたでしょうし、何とか逃げたとして、それは大変な思いをされたと思います。でも「どこにいた」とは言えないだろうし…。
「普通に」家は全壊か、1階部分が抜け。
「普通に」大破した車が積み重なり。
「普通に」瓦礫が山になっている。
仙台の海辺は、そんなことになっていました。

地図すら出なくなったカーナビの代わりに、保健師さんがiPhoneでナビをしてくれました。
iPhone最高。買っちゃうかも(笑)
午後8時、ホテルについて、引継書には「フランス料理店」とあったのですが、どう見てもイタリア料理店で遅い夕食をとりました。

本格稼働は、明日からです。

8月8日~10日
1日のスケジュールは以下のとおり
6:30 ホテル発
8:30 全体ミーティングの後、エリア別に分かれて活動計画、確認等
9:00 市役所発
9:20 活動場所着、準備
9:30 活動開始
11:30 午前中の活動終了、記録整理
12:00 昼食
13:00 午後の活動開始
15:30 活動終了、記録整理
16:00 市役所エリア担当に報告、引継、翌日の打合せ、本庁に報告
17:00 帰路(この後近隣被災地見学)
19:40 ホテル着
その後3人で夕食をとり、各自部屋で業務日誌をつけ…寝るのはいつも12時過ぎ。
寝ていても毎晩余震があるし、眠れていない。そして目覚ましより早く起きる。

宿泊先のホテルから石巻市役所までは60kmくらいで殆ど「いわゆる高速」なんだけど、その「高速」が全く高速じゃなくて、2時間近くかかります。
特に帰りは、支援活動車が一般レーンに集中するので出口渋滞がひどく、2~30分かかることも。
そんなんでいつも帰ると8時近く。正直夕食なんて食べなくていいんだけどそうもいかず。「遅い夕食」が続くのが一番辛かった気がします。

日中の活動は何をするかというと、保健師さんは仮設住宅(以下、「仮設」といいます)を訪問して、健康調査を行います。基本的に私は保健師さんを現地に送り迎えさえすれば後は何をしてもいいのですが、車に資料を取りにもどったり、仮設でトイレを借りるわけにはいかず、徒歩圏内にトイレは無いので近隣のコンビニまで送ったり…というわけで、基本「そこで待機」。新しい仮設を回ることになった時には事前に場当たりをしておいたり、コンビニや医療機関の場所チェック(そしてたいがい仮設から歩けるところには無く、被災者の人は本当に大変)。訪問先で使う様式の準備をしたり、ガソリンがすぐ無くなるので入れたり、メッシュベスト(支援ユニフォーム)のクリーニングを出したり。
普段の業務では必ず「見積・請求による後払い」なのですが、こういう時には現金払いが認められていてちょっと新鮮な気持ちになったり。
あと、雑用で行った先の人がみなさん「遠くから来てくれてありがとう」とか、正直私は支援らしい支援なんて何もしていないのですが「何かしようって来てくれるだけで励みになる」とか、仙台から通っていると聞いて「遠くて大変だからうちに泊れ」とか。ガソリンスタンドのお兄さんも「ご支援ありがとうございます。気を付けてどうぞ」って。
普段の仕事で「ありがとう」なんて言われたこと無いからね。沁みるものがありました。ちなみに保健師も「ありがとう」と言われない業種らしく(「うるさい」「大きなお世話だ」ばかり)、やはり「うれしい」と言っていました。

しかし、訪問先の被災者の方々は、精神的にフォローが必要な人が多く。
自分も持病があるのに要介護者がいたり、震災後に引きこもりになってしまった子もいて、市役所担当者への引き継ぎは、長い時は1時間以上になりました。

石巻市内は、海から遠い場所は復旧していますが、ときどき無秩序に潮の香りがしたり…私は「海沿いの町」の出身ですが、自宅は海から600mほど離れていて、どこから風が吹こうが自宅周辺で潮の香りなんかしたことありません。でも、海からも川からも離れた市街地の真ん中で海のにおいがする。
そして、駅の周辺は信号が復旧していなくて警察官による手信号。その警察官もよく見ればベストに「愛知県警」「福岡県警」。自分の前を走っているパトカーの後ろに「埼玉県警」すれ違う車には「支援活動車両」の表示。
…そんな中、決して物見遊山などではないですが、被災箇所の「見学」なんてそうそう行けるわけもなく。「邪魔にならないのも仕事のうち」…と、1人では殆どどこにも行きませんでした。

被災地見学
3日目までは業務終了後、4日目は日中に時間をとって、被災地を見にいきました。
(写真は省略されています)
1.仙台市岡田地区
「夢メッセみやぎ」
なぎ倒されたポール。当然メッセはガラスが割れ、閉館状態。
途中の道の方がひどいのですが、運転しているので撮影できず。

2.日和山公園
公園そのものは被災していないけれど、被害の大きい石巻漁港周辺を見ることができます。
写真で見るとよくわからないですが、ぐしゃぐしゃです。
神社があって、「釣り人守り」とか「肌守り」とか。サトシックにとって非常にアレな場所だったのですが、人がいなかったので何も買わず。
お参りだけして帰ってきました。

3.サンファンパーク
保健師さんに教えてもらったが、まあ、どういう場所なのかは
http://www.santjuan.or.jp/before/index.html
↑ここを見てもらって。(2024.1.10現在リンク切れ)
デートコースにぴったりのすごく素敵な場所でした。
夕暮れの海がとてもきれい。
震災後は閉館しています。
写真、業務用のデジカメから取ってくるの忘れた。

4.石巻漁港周辺
渡波地区など、かなりひどかったのですが、車を止められないので撮影できず。
石巻漁港付近で海岸方面に進み、被害を受けた工場で撮影。
爆撃?って感じです。
潮と重油と魚の悪臭で、吐きそうでした。
壊れた建物の向こうに見える夕暮れの海が静かできれいでした。

5.女川町
※女川から通っていらっしゃる石巻市の職員の方が
「絶対に夜に行くのは危険。灯りがひとつも無くて真っ暗だし、道路の境目がわからない。是非見てほしいけれど、必ず昼間にして」
というので、10日の午前中に行ってきました。

入江になっていて被害の少ない地帯を抜けると、いきなり廃墟になります。

フォト
横転した鉄筋コンクリートの建物

フォト
行き来する作業車

「女川 津波」で検索すれば、動画が出ます。
戸川純の「さよならを教えて」って歌で

たとえ大惨事がおきて
濁流が走り
街中が、廃墟と化しても

ってあって。
すごい「非現実」な歌詞だったのに、現実。
本当に「濁流が走り、街中が廃墟と化し」た。

正直、この写真は見ても意味が無いと思います。
確かに私は「被災後3ヶ月経って全く復旧していない」状態を見て、「現地に行かなくては」と思いました。
実際に見て、写真を撮って、それを見ると…何か違うのです。
大きさだと思います。
このサイズで見ても、ゲームみたいだし、パソコンで見ても「テレビ」です。
想像してみてください。
1辺が5m以上あるコンクリートの建物が、基礎から「横転」して目の前に転がっているのを。
西部劇か?というほどの砂埃をあげて作業車が走って行くのを。
そこは、かつて「街」だったのです。
終戦直後って、こんな感じだったのかな…。

「漁村」というのはだいたいどこも似ています。
港があって、それに続く「これが?」というほど細い国道、周辺の小さな家、加工工場、港を中心にする商店、駅、役所。
私が育った街や、千葉で言えば南房総が、灰茶色の平地になっている。
でも「平地」になっているのは誰かが必死で片づけたからで、そこで山積みになっている瓦礫が一面に広がり、引き裂かれた家屋に、道端に、「普通に」死体が転がっていたのです。
被災前の女川の写真を見ました。
小さな、のどかな、美しい町でした。

昼食のために市街地に行くと、必ず喪服の人がいます。
お葬式の看板も毎日見ます。
震災で亡くなった方の葬儀が、まだ行われているのです。
「お盆前に何とか」と思っても、無理なんだそうです。

石巻市役所の乳幼児健診担当の人が言っていました。
「健診に来なかった世帯には電話をしているのですが、電話がつながらなくて、住所のある場所に行ったら家も何もなかった。『ここにいたはずの赤ちゃんと、若いお母さんはどうなっちゃったんだろう』って話しながら帰ってきたんですが」
声を詰まらせることも、涙ぐむこともなく、淡々と行われた報告。

壊れた建物の上に重なる大破した乗用車も、家の窓から見える死体も、何もかもが「普通」になってしまった街。

どこに行っても見る

「がんばろう東北」
「がんばろう仙台」
「がんばろう石巻」
「がんばろう女川」

がんばろう がんばろう がんばろう・・・。

被災された方が自発的に言うなら別にいいんだけど。

「『がんばれ』では他人事です。一緒にという意味をこめて『がんばろう』にしましょう」

そんな、マニュアルどおりの言いかえに、何の意味があるんだろう。
この『がんばろう』、『がんばれ』とどこが違うの?
『がんばろう』って貼ってる人は、何をがんばってくれてるの?
そんなに言われても、がんばれないよ。

被災された方が、そう思ってなければいいのですが。

「隣にできる」と発表されたら絶対に住民から反対運動が出るであろう産廃置き場。
その何十倍もの瓦礫の山の隣に平然と建設される仮設住宅。そしてそこに住む人々。
家に帰るときに、必ず目に入る「津波の爪痕」。
健康調査で行くたびに、「ここに住むのはきつい」と思いましたが、そこに住めるのは、抽選に当たった「運のいい」人たち。

何もかも、判断基準がわからなくなります。

だいたい、帰りが日没頃で。
三陸道から見える高く広い空に、茜色の雲がとても美しくて。
本当に、いいところだな、と思いました。
言葉も出ないほどの壊滅的な街と、静かな美しい空と海。
怖かったです。

<その他、どうでもいい話>

タイトルにした「ナイスミディパス」。JRが30代以上の女性グループ旅行を狙って発売した割引切符ですが、今は販売していません。
保健師さん2人は、2人とも肩下程度の髪を後ろでひとつにまとめ、メガネをかけていました。
ちなみに私も暑いので肩下程度の髪を後ろでひとつにまとめていました。
3年前の手術が無かったら、私もメガネです。
「それは規則か何かですか?」と思われたかもしれません。

借上げ公用車についていたナビは全くもって機能せず。
常に300mくらい違う位置を示し、発進しても動かず。方向もめちゃくちゃ。
3回に2回は「ディスクを読み込めませんでした」と真っ暗。「道路が出ずコンビニしか表示されない」ことも多数。
やっとのことで目的地を入力、経路検索すると「検索できませんでした」
「ちょっと複雑な指示をすると理解できず何もしない」…出来の悪い後輩を見るような思いで、黙って「頼りになる嘱託さん(=紙の地図)」に業務をお願いするのでした。

「でかい車」の運転は、当然ながら自動車専用道を走る間は何も怖くないのですが、込み合った狭い駐車スペースやら、石巻市役所の立体駐車場では本当に怖くて。
最後に宮城県庁の駐車場に止めたときは、心からホッとしました。
今日、久しぶりに自分の車を運転したのですが、左折時に不必要に前に出たり、空中でシフトレバーを探したり、左足が動いてしまったり。
たった5日間ですが、すぐ慣れるもんです。

現地の心の支えとしてウォークマンを持って行ったのですが、電源を入れたのは往復の新幹線の車内だけです、
スピーカーも付けていたらまた違ったのかもしれませんが。
とにかく「早く寝ないと明日の体力が持たない」…それしか考えられませんでした。

<この先は家庭のこととかなので略>