6月で真夏日。まだ夏どころか梅雨にも入ってないぜ…?
風があるのでまだクーラーに頼っていないが、
時間の問題である。
内勤ならまだしも、外で作業する系の仕事は大変だろうな。
*******
先日ドラマのあるシーンの捉え方について
ネットニュースになっているのを読んだ。
そこで疑問に感じたのが、
受け取り手の捉え方の自由はどこまで許されるのか?
ということ。
殴り書きのように考えてみる。
今でこそ作り手が自分の伝えたかったことを
受け取り手側に「こういう意図です」と直に発信する場所があるけれども
過去、特にネットやSNSが無い頃はそれが出来なかったため、
意図からズレた捉え方をする受け取り手も多かったと思う。
ただ、受け取り手側も発信する場所が少なく、
あったとしても身の回りの人たち、という狭いコミュニティで
全世界の人に見えるかたちでの発信はできなかったし、
たとえズレた解釈をしていても、
作り手側に直接それが届くということも無かった。
コミュニケーションは作り手→受け取り手の一方通行で、
その間には「作り手やその周りが作ったもの」が挟まれており、
「作ったもの」に接する受け取り手の価値観は
それこそ様々(作り手とは異なる思考も多い)であるため、
「伝えたい意図」と齟齬が生じる可能性も大いにある。
国語の試験でよく、作者の意図を答えなさいという問題が出ていたが
「正解である意図」を読み取れることは、読解力として必要な能力だ。
(ただ、これも作者が実際解いてみたら不正解だったこともあったようで、
それこそ問題を出す側だって難しいことなんだろう)
とすれば、作り手の意図は正しく伝わるべきである、ということ。
うーん。わかんなくなってきた。
意図を正確に捉えることは絶対必要なことなのか。
作り手の「こういう意図です」に対して
受け手の「そういう意図なのか!なるほどさすが!」もあれば
「え、わかんなかった、違う解釈してた」という異なる見方もあって、
異なった場合の「違いますよ!あなたは不正解です!」と断罪される感が、
なんかどうもしっくりこないんだよな。
捉え方の自由ってどこまで許されるんだろう。