6月で真夏日。まだ夏どころか梅雨にも入ってないぜ…?

風があるのでまだクーラーに頼っていないが、

時間の問題である。

 

内勤ならまだしも、外で作業する系の仕事は大変だろうな。

 

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先日ドラマのあるシーンの捉え方について

ネットニュースになっているのを読んだ。

 

そこで疑問に感じたのが、

受け取り手の捉え方の自由はどこまで許されるのか?

ということ。

殴り書きのように考えてみる。

 

今でこそ作り手が自分の伝えたかったことを

受け取り手側に「こういう意図です」と直に発信する場所があるけれども

過去、特にネットやSNSが無い頃はそれが出来なかったため、

意図からズレた捉え方をする受け取り手も多かったと思う。

 

ただ、受け取り手側も発信する場所が少なく、

あったとしても身の回りの人たち、という狭いコミュニティで

全世界の人に見えるかたちでの発信はできなかったし、

たとえズレた解釈をしていても、

作り手側に直接それが届くということも無かった。

 

コミュニケーションは作り手→受け取り手の一方通行で、

その間には「作り手やその周りが作ったもの」が挟まれており、

「作ったもの」に接する受け取り手の価値観は

それこそ様々(作り手とは異なる思考も多い)であるため、

「伝えたい意図」と齟齬が生じる可能性も大いにある。

 

国語の試験でよく、作者の意図を答えなさいという問題が出ていたが

「正解である意図」を読み取れることは、読解力として必要な能力だ。

(ただ、これも作者が実際解いてみたら不正解だったこともあったようで、

それこそ問題を出す側だって難しいことなんだろう)

 

とすれば、作り手の意図は正しく伝わるべきである、ということ。

 

うーん。わかんなくなってきた。

意図を正確に捉えることは絶対必要なことなのか。

 

作り手の「こういう意図です」に対して

受け手の「そういう意図なのか!なるほどさすが!」もあれば

「え、わかんなかった、違う解釈してた」という異なる見方もあって、

異なった場合の「違いますよ!あなたは不正解です!」と断罪される感が、

なんかどうもしっくりこないんだよな。

 

捉え方の自由ってどこまで許されるんだろう。