とあるニュースを見て、

ああ、きっとこの人は

幸せな環境で生きてきたんだろうなあ、と思った。

(何の悩みも無く…等僻みを言いたいわけではない)

 

受け入れてくれる人がいて、

応援してくれる人がいて、

やりたいことをやって、

「こんなに頑張ってる自分好き!楽しい!」

「皆も喜んでくれる!楽しい!」

 

ただ、そこに対価が生じるとき、

自己満足は価値にはならない気がする。

 

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商品価値の大前提が「美しさ」の業界にいたので

それを売り手として「作る立場」になったとき

(どちらかというとバックオフィス業務で入ったのだけれど、

人手不足もあり、そりゃあならざるを得なかった)

それはそれは、とんでもなく緊張したものだった。

 

そもそも材料自体がまず美しいのだけど、

色、質感、組み合わせのバランス…

制作者の技術次第で、

それはいとも簡単に損なわれてしまう。

 

かといって不安でいっぱいの頭で手を動かしても

それすら、表出してしまう。

 

手先が不器用すぎるほど不器用な私には難題そのものだったから

何度もダメ出しをしながら指導して下さった先輩や上司には

今でも感謝しかない。

 

そのうちOKが出れば店頭に並べられたり

より高額なご予約の商品の制作に携わるようになるのだが、

「その金額に見合うだけの価値のある商品です!」

と店に出すのも、ご予約いただいたお客様に見せるのも、

慣れてはくるものの、「この店の商品として見定められる」感覚は常にあった。

 

店頭には、もちろん先輩方の制作した商品も並ぶ。

そしてこれまたもちろん、

「より出来の良い」ものから売れていくことが多い。

(お客様の設定されてる予算や、好みの色合い等の都合もある)

 

目の前で起こる「わかりやすい評価」から突き付けられる

「自分の実力」に、目を背けたくなることもしばしばあった。

他の仕事と同じで、「こんなに頑張りました」は通用しない。

その金額を出す価値があるかどうか決めるのは、私ではない。

 

そんな中で目がとまり、選ばれて、清算をするとき、

嬉しくて、同時に、とても緊張した。

500円でも、1000円でも、10000円でも、それは同じだった。

 

たぶん、購入者が「対価」と捉える商品の価値なんてそれぞれで、

それが「頑張り」とか「繋がり」の場合もあるのだと思う。

 

けれど、商品としてせめてもの

「大前提となる基準」は、満たす必要があるのでは?

 

「既存の関係性の中で受け入れて応援してくれる」輪の中だけでなく、

もっと広い社会の風にさらしたうえで、求められる基本的な価値に、

まず見合うものなのか、見定める必要もあるのでは。