私は創造したいと思えることが
それほどないと感じていた。
なのに、創造する方法には興味がいった。
魂が震えること、ということに
「喜び」とか「楽しみ」という
概念だけが結びついていた。
それは、間違いないとは思う。
けれど、私の魂が震えることは
そうではないとやっとはっきり
わかった。
気づいた。とは書けない。
なので、左脳的見解、つまり
自我の私がそうありたいと願う
だけのことかもしれない。
これまで、右脳的と思われる
魂とかハートの声のほうが
重要だと思ってきた。
けれど、ジル博士の「Whole Brain」
の説を聴いて、左脳の重要性もさらに
感じるようになった。
私自身は左脳が優位だと思ってきた。
が、ちゃんと右脳も働いている。
ヒューマンセンサーなるものの
診断でも両脳を使えることがわかっている。
その上で、左脳の働き、左脳的見解を
軽視したくないと思っていた。
でも世の中の左脳的見解はあまりにも
右脳を軽視していることがあると感じる。
これは、人はどう生きるべきか
(この場合のべきは一般論として
使うのを仕方ないと考える)
という基本理念がそれぞれで
違うので、そうなってしまうだろうと思う。
人がそれぞれで、
私はどう生きたいのか
を確認した上でないと語れない。
だから、私はずっと私だけのことで
考えてきた。けれど、やっと人と
この世で関わることの意味が見えてきた。
やっとだよ(苦笑)
それがめっちゃ大真面目なことで
自分でも笑える。マジで私って
真面目なんだなって(ダジャレだよ笑)
私は狡猾に誠実に生きる(現時点でのこと)
矛盾してるよねww
矛盾のように思うこと、あることが
私の本質なのかもしれない。
この本質と言うのは、「無」である
私がこの世に生まれた私自身の
プログラムのこと。
それ以外のプログラムを刷り込みと呼ぶ。
