緊急事態宣言が出されて
家から丸っきり出ない日が
2~3日になることもある。
ってことは出てる時もあるんだけど。
いくら自己免疫力や自然治癒力に
自信があると言っても人に
会わないに越したことはない。
と言うか本当に会わないほうが
この状況が改善するのに
最速になるんだけれど。
片づけと読書にいそしむつもりだった。
まあまあ、やってはいるのよ。
でもほぼやっているのは動画鑑賞。
何かを観ていれば時が過ぎる。
娘とはほぼシェアハウス状態なので
食事も思い思いにしているので自由。
ずーっとテレビや映画を観て
眠くなったら寝て、散らかし放題した後は
片づけて掃除して。
全くの不規則。
やりたい放題なのだが、なんだか
これでいいのだろうか感が出てくる(笑)
このやりたい放題から片づけそうじを
取ってしまうとゴミ屋敷になって
しまうだろうからね。
そこは、自己免疫力がぎりぎり
作用しているのかもしれない。
そして、やりたい放題なのに
それほどの豊かさを感じない。
人と交わっていないせいだろう。
今ここを生きる練習にはなる。
それしかできないし。
何もしないで自分を感じるということも。
平和とも言えるし
無味乾燥とも言える。
もちろん幸せでもある。
この間、友人へのLINEセッションで
彼女のちゃんとしたい無意識を
発見したが、私とて同じだ。
私の場合はちゃんとしたいと
言うよりはちゃんとしてみたい
と言うほうが近い。
遺伝子には規則性を求める
時計遺伝子なるものも存在する。
生体には規則正しさが理論として
つきまといもする。
でも自分のことに照らし合わせてみると
必ずしも規則正しさに体調が合わない。
厳密に調べると私的な規則があるのかも
しれないけれど。
人知を超えたという言い方は
想像力の深刻な機能停止と
言った科学者がいる。
科学者だからね。
でもこのカール・せーガンという
科学者は現時点ではあり得ない
と言われることにも積極的に
挑んだということになる。
そうやっていつかスピリチュアルと
して怪しまれていたことも
解明されていくということなんだと思う。
そう考えると、いわゆる
スピリチュアルでよく言われる
考えないで感じなさいだけでは
人類は発展していけない。
もちろん、感じることを
無視する必要はなく、
考えてばかりでも発展は
難しいのだろうけれど。
ただ一方で著名なウイルス学者が
スペイン風邪の流行から100年経っても
感染防止には「近づかない」という
ことが全く変わっていないと言った。
どんなに科学が進歩しても
原理原則は変わらないということで
考えるまでもないとも言える。
生業としての仕事がなくなると
(あってもだけれど笑)
俄然こういうことが頭にのぼる。
すると、どんなこともすべて
無意味なことはなく、かと言って
その意味をすべて解明する必要もない
ということに思いが至る。
つまり、どんな風に生きても
何があってもよいと。
すると、私の感情は置き去りに
なってしまって無価値感になってしまうようだ。
で、こうなってしまったら
感じようということになるのだけれど。
こうなると何も感じないじゃんね(笑)
なので、映画やドラマで他人の
人生の感情の機微に触れて
その感覚を思い出すのだね。
他人と触れ合わないことは
波風も立てないけれど
そこでの歓びも得られないことなのだ。
その他人という定義の
範囲はとても広いのだけれど。