ある人の円満な夫婦のありようがわかるブログを読んで改めて気づいた。
うちは、夫婦で子どもに対する考え方が
一致することがあまりない、ということに。
一番最初の彼への不安は
「あいつはこのままじゃダメだ」
というヒトコトだった。
その息子はまだ小3だった。
勉強に打ち込むわけでもなく
(そんな年でもないし)
ぽよよ~んとした優しい子で
それがどこが頼りない感じでも
あったかもしれない。
でも、子どもの良さなんて、そうそう
確定するものでもないし、長所は短所でも
あったりする。
その時、なんだか気持ち悪いのに
何が気持ち悪いのかわからずにしばらく
いたことを覚えている。
それは、信頼する(当時)夫が、
自分たちの子どもを信頼していない
発言をしたからなのだ。
信頼していた人がまさかそんな
それを180度ひっくり返す人だった
なんて思えなかったんだ。
だからこの気持ち悪さにすぐに気づけなかった。
同じときに
「親は尊敬されなければいけないんだ。
尊敬させるようにしないと」
というなんとも不穏当な発言もしていた。
尊敬はさせるものではなく、
しかるべき人に後からついてくるものだ。
確か、「親が子どもを信じなくてどうするの?」
とワタシが意見したときのことだったと思う。
離婚したい、と言い出してきたとき、
夫は
「おまえは子どもに良い影響を与えないし」
とも言っていた。
それはワタシも相手に対してまったく同じことを
考えていたのでわかる気がした。
親からの悪い影響だって反面教師ということもある。
親は教育方針を一致させなければいけない
なんていう評論家もいるけれど。
夫は「オレは子どもたちが良くなるためだったら
嫌われてもいいから厳しくする」
と言ったが、その理念だけは立派だと思う。
実が伴えば、ということだ。
ただ、親であることは消せない事実なのだ。
だったら、違いをお互いに納得いくまで
話し合って、もしくはそのままで違うまま
育てる覚悟をしていけばいいと、ワタシは
思ってずいぶんいろんな話しかけをしていた。
そのたびに
「この人は話が通じない」
という思い込みが強くなっていってしまった。
ワタシは母に対して思ったことと同じだ。
ウニヒピリが「この人は話が通じない」
という記憶を再生して、この現実を
引き寄せている、という理屈がとても合う
と思える。
当時は自分の意見に夫を従わせようとして
話していたかもしれない反省はある。
夫を認めずにいた、ということだったかもしれない。
行き着くところは「無価値感」というものなのだが。
大方、人間というのは、こういう場合は
「性格の不一致」と称して離婚するのだな、
と思う。
ワタシは霊的にも人間的にもどんどん先に
ステップアップしたいので、この状況がとても
残念に思えてならない。
でも、そう思ってもみんなと同じ人間なので
(本当はどこかでみんなとは少し違うと思いたいのだ)
ワタシがまるっきり折れて謝り倒す、ということもできない。
いや、謝り倒しても、反応は変わらず無駄に
自分を傷つけるだけだと思っているのだ。
「誕生日おめでとう」とメールを打ったら
「誕生日云々ではなく先のことを考えてほしい」
という返信がきたことでそれが明確になった。
これもワタシのウニヒピリの記憶の再生に過ぎないのか。
そうだとしても、今まだそれを癒して解消できないんだな。
もしくは問題が違うということ。
離婚してからの新生活にこそ、ワタシの人生が
あるんだということを信頼することが大事なのかもしれない。