ガラスの仮面にハマってから、わたしの心はガラかめ一色に染まっている。


続きが気になって無我夢中で全巻を一気に読み終えたあと、すぐさま二周目へと突入した。もはや中毒状態である。


劇のシーンなどセリフの多い漫画なので、一度読んだだけでは完全に頭に入らない。二回目でようやく気を落ち着けて読めて、演劇の内容や登場人物の心情が理解できた。


ガラスの仮面は「紅天女」という伝説の舞台の主役の座をめぐって競い合う二人の若い女優の話なのだが、この漫画から様々な気付きがあった。



ひとつは、人は皆誰かの優れた面を見て羨み、自分に欠けているものを感じて劣等感を持つ生き物だということ。


たとえばエンタメ界の大物の両親のもとに生まれ、美しい容姿と素晴らしい演技力を持つ姫川亜弓は優れた女優である。しかし彼女はライバルの北島マヤと自分を比べて劣等感を感じている。


自分が必死に努力して役作りをするのに対し、素人同然のマヤは「なんとなくこうしたらいいと思って」天性の勘でスルッと演じたり、役柄の本質を掴んでしまうからだ。


マヤは見た目も普通で、舞台を降りれば何の特徴もない平凡な女の子。両親を亡くし、演劇をとったら何もないマヤは恵まれた境遇に生まれ美しい容姿や優れた表現力を持つ亜弓と自分を比べ、「こんな人がいるなんて!」と羨んでいる。


二人とも相手をすごいと思い、自分と比較して劣等感を抱く。そしてそれを払拭すべく芝居に打ち込みんで成長するわけなのだが、これってこの二人でなくとも誰もが感じることだよね。


第三者が公平に見るとどちらも素晴らしいのに、当事者達はライバルの一番優れたところを見て相手をすごい、羨ましいと思い、自分に欠けている部分に目がいってしまって劣等感を抱く。


一番いいところと一番ダメなところ、自分が持たないものを見て比べるせいで、自分はダメだと落ち込むことになる。



特に亜弓はプライドが高く、マヤと比べられることに対して敏感だ。マヤに負けたくない、その役は渡さないと闘志を燃やす。


プライドが高いお嬢様だからではなく、亜弓はそれだけ努力をしているから。生まれのよい恵まれたお姫様のようでいて、彼女は常に血の滲むような努力をしているからこそ勝ちにこだわる。


マヤの方はただお芝居が好きで、演じることが生きがいなだけ。役柄をどう演じるかをつかむまではマヤも苦悩するが、天性の才能でふとした瞬間にそれを感じてつかんで舞台では別人のように輝く。


しかしマヤは自分に才能があると自覚しておらず、アカデミー助演女優賞を取るほど評価をされても確固たる自信を持てない。それ故に演技が好きで楽しめても、事あるごとに私なんて亜弓に叶わないと感じて不安になるのだ。



いやもうほんとにね、どちらもすごいんですよ。それぞれに魅力があってどちらが上とか選べない。これを言ったら元も子もないが、紅天女の役者は一人に決めなくていいんじゃないかとすら思う。どちらの紅天女も見てみたい。


そう、ガラスの仮面を読んで私が感じたことは比べることの無意味さだ。誰かや何かとの比較、勝ち負けなど意味がないのではないか。


もし誰かがそれを決めたとしても、それはその人の、その時の価値観でしかない。それを選んだ人がそう感じただけで、別の人が別の時に見たら答えは逆かもしれない。選ぶ側の好みやニーズ、その時の状況にも左右されるし、そう考えると比較や勝ち負けってあまり意味がないのかもしれない。



漫画は途中で止まっており、紅天女役がどちらになるか、どんな結末になるかはわからない。作者がどんな結末を描くのか最後まで読んでみたい。



もう一つ考えたのは、許しについて。


真澄はかつてマヤの母親にしてしまったことに対し、自分はマヤから一生許されないと思っている。


マヤを愛し、陰でずっと応援し支え続けているのに、罪悪感から自らの本心を認められず誰にも心のうちを明かせない。


彼女から許されるはずがないという強迫観念、思い込みから、マヤが「紫のバラの人」の正体に気付いたことも、マヤが真澄に好意を持っていることも気付けない。仕事が出来てハイスペな真澄はマヤのことなると冷静さを失い、白目を剥くほど動揺する。


マヤはたしかに真澄のやり方や仕打ちに対して怒り、憎んでいたこともあった。けれど真澄や「紫のバラの人」にしてもらったこともよく理解しており、そのことに深く感謝している。


自分の心の支えだった紫のバラの人の正体を知って困惑しつつ、それが分かったことにより彼を愛している自分に気が付いている。つまり彼女は愛によって彼を許しているのだ。


真澄は見た目も中身もシュッとした常識人であり、自分とマヤの年齢差にもかなりこだわって悩んでいる。この俺が11才も年下の少女に…とよく一人で悶々としている。これも一つの囚われであり、固定観念や常識に雁字搦めになっている証拠だ。人を好きになるのに年齢なんて大した問題でないのに。


つまり人が一番許せないのは自分自身なのかもしれない。真澄は自分を許せず、罪悪感から自分の本心を押し殺し、自らを険しい道へと進ませていく。己の気持ちに蓋をして、会社や義父のため一生を誠意で報いようとする。自分の本心と自身の置かれた立場、状況に揺れる真澄の気持ちは切なく、苦しい。


真澄が自分自身に素直になり、自分を許せたらいいのに。自分を許すことで何かが壊れても、自分は救われるんじゃないだろうか。


幼い頃から苦労し、孤独に生きてきた真澄とマヤ。支え合い、伸ばし合い、自然のまま素顔の自分でいられる相手、きっと二人はそういう関係になれるはず。「紅天女」は悲恋の話だけど、二人が結ばれるエンディングだといいなぁ。二人だけでなく、皆が幸せな形で終わってほしい。



漫画の中で、才能とは自分を自分自信を信じることだと月影先生は仰っていた。伸びていくには自信と闘争心が必要なのだとも。


この二つはわたしに欠けていて、まるで自分に言われているような気がした。


比較、勝ち負けの世界から脱し、自分を許して認める。そうすることで自らを信じて自分に自信が持てるようになるのかな?自信を持てたらもっと上に伸びたいと思えるのかしら?


あれ?なんとなく掴めてきた気がする。

なれる…!

わたし、私になれる…!!