おはようございます。







今日も高校時代の回想録の続きですので興味のない方はスルーしてくださいね。










目先の事だけを考えて新聞屋📰を辞めてしまった自分は住むところを失いました。



お金💰も大して持っていないのでアパートを借りる事も出来ません。



そもそも高校生に貸してくれるのか。



17歳の世間知らずは露頭に迷います。



バイトは友達の紹介でなんとか見つかったのですが寝床🏡がありません。



当時、足繁く行っていた喫茶店☕️のママさんの紹介で高校生でも貸してくれるという心の広い大家さん👴を紹介してもらいました。(その後、このママさんには何度もお世話になりました🙇🏻)




築何十年?って思うほどのボロボロな木造アパート。



6畳一間に靴が2足だけ置ける玄関で畳は割と綺麗でしたがそれ以外はボロボロで玄関扉はベニヤ板を貼り合わせたような簡素なものでした。(あとでわかったのですがギターのピックで鍵が開きました)




しかし自分には断る事はできません。



高校生でお金もないだろうからと家賃は¥6000円でいいと言ってくれました。(今考えたら妥当な額と言えるほどボロボロだった)



一日¥200のボロアパート。



それからはいくつものバイトを掛け持ち、バイトに明け暮れる日々を送りました。




当然のように学校には必要最低限の日数と試験の日しか行かなくなりました。



2年の3学期の期末試験は散々たる結果でうちの高校は留年=退学という図式だったので進級は無理だと思い就職先を探すようになりました。




しかし、先生たちが必死に下駄を履かせてくれて、ギリギリ2教科だけの追試にしてくれました。(3教科ダメなら留年で5〜6教科はダメだったはず)


そんな先生たちのおかげでなんとか3年生になる事は出来たのですが、相変わらずバイトに明け暮れる日々を送り何も変わりませんでした。


卒業も難しいだろうと予想していた担任は自分が学校に行っていない日に学級委員長を決め自分にさせたのです。(それも1年間ずっと)



学校にもろくに行ってない自分が学級委員長⁉︎



まあ、そのおかげで卒業させてもらったんですが…



その当時はひとりで何でも出来ると思って偉そうなことを言ったりもしてきましたが、今振り返るとその当時からたくさんの人に助けられてきたからこそ今の自分に繋がっているんですね。


そう考えると、あの高校3年間が今の自分の原点なのかもしれません。




だとしたらダメダメな人生ですね😱…(笑)






おしまい。













 

 治療法がなく日々身体能力を奪われていく神経難病患者が、安心して予後の生活を送れるようにすることを目指します。



 

~神経難病の「知りたいこと」と「実体験に基づく情報」を掲示板でマッチング~



【難病の方の活動、

生活を支援する】

204号室に入居しています。

よろしければぜひ一度

お越しくださいませ。