前半の、お二人の対談
●土屋氏の作品について解説
土屋氏「ご自分に合った紋様や色の衣裳を作られていてすごいです。」
玉三郎さん「歌右衛門さんや六代目さんの時代には、美術の勉強をしているのだけどそれだけでは食べていけないような方がいて、
そういう方達と関わりがあって、役者に美術の方が付いていて本職の絵を描く合間に、
この人にはこんな柄の着物が良いんじゃないかしら、
と着物の柄の絵を描いたりしていたんですね。
それが、僕の時代からそういった方がいなくなってしまったんです。だから自分で考えるしかなくなっちゃったんです。
もしそういう方がいて下さったら、僕も、もっといいやつ!もっと違うやつ!って言ってるだけだったと思います(笑)
小村雪岱さんだって元は美術家で、六代目さんの要望で舞台美術を手がけるようになった。
どうして芸術家同士の関わりが減ってしまったんでしょうね」
土屋氏「自分のことで精一杯なんじゃないですかね」
玉さま「…そうですか…」
土屋氏の染色の様子の写真など見ながら
玉三郎さん「(染色のための)植物はどこで採ってこられるのですか?」
土屋氏「できるだけ地元や近くのものを使います。(具体例いくつか)」
玉三郎さん「同じ色って染められないんですってね」
土屋氏「同じ木から採った葉でも日の当たっているところとそうでないところでは色の出方が違う。
全く同じ色というのは出来ない。
自分の先生がよく仰ったことには、色というのは授かるもの」
玉三郎さん「僕らなんて、色は授かるものだなんて知らないから、色は注文するものだって思ってて」(笑)
「これと同じ色にして、って言っても、難しいんですって言われちゃって」
「紫なんかは染められる季節が決まってるんですってね」
LEDの話
自然光かランプじゃないと色が分からない。波で発光する蛍光灯やLEDでは色が違ってしまう。半年で1個かな、とか計算して電球を買い貯めてる。
玉三郎さん「色って違って見えません?土屋さんはどうされてるんですか?」
土屋氏「そこまでの違いは…仕事するときは自然光ですね。あ、でも、僕は昼間しか仕事しません」
玉さま「自然光ですよね!ああ、僕らは夜も仕事しなくちゃいけないから~(´・_・`)」
●土屋氏の玉さまコレクションより玉三郎さんの写真集や公演パンフレットの写真を見ながら
⚫︎初の写真集
土屋氏「京都を転々と住むところを変えていたがこれだけはずっと大切に持っていた、特別な大切なもの。」
「お恥ずかしい、訳もわからず撮った頃なんです」
⚫︎雑誌の対談
志村ふくみさんや水谷八重子さんなどとの対談のこと
玉三郎さん「当時1ヶ月(?)に1回のシリーズで、会いたい人とお話しさせてくれるのなら受けるって言って受けたお仕事だったんです。
もちろん面識はあってお話ししたことはあったけれど、
どの方も対談という形でお話して改めてして下さるお話がたくさんあって、
僕にとってとても大切な経験になりました。」
土屋氏「当時高校生で、玉三郎さんのことを写真で知っていてこんな方がいるのかと思っていて、
元々染織に興味はあったけれど、志村ふくみさんとのこの対談を読んで、染織家になろうと自分の道を決めたんです。」
玉三郎さん「まあ…!そうだったんですか…!そう伺って何だかすごく胸がいっぱいです」
(その後にも)「僕の仕事を見て土屋さんが仕事をお決めになったと伺って、胸が熱くなりましたし、身の引き締まる思いがしました。若い頃は忙しくて仕事がこなすだけになっていたところもあったけれど、そのお話を聞いて丁寧に(といった意味合いのこと)しなければと、自分にはとても責任があるなと感じます」
⚫︎?
⚫︎日本橋
お孝
土屋氏「若い頃もそれは美しかったけれど、衣裳もどんどん変えられて、シネマになっているものを拝見しているけれど、今が一番お美しい。
江戸の粋で鯔背な女がとても素敵で。」
玉さま「(今の方が一番ということについて)そうでしょうか(笑)
衣裳なんかはね、お役が来ると最初の頃は先輩方が作ったものを使わせて頂くんですね、回を重ねるごとに、こうした方が良いんじゃないかしら、と工夫していったんです。」
⚫︎牡丹亭
土屋氏「これは京都で拝見したんですけど、
観ていて涙が出てきたのを覚えています。
蘇州の言葉、完璧に演じられていて、習得されるのに物凄い努力をされたんだろうなと、
それを思うと余計に感動して。
話自体はなんてことない話だと思うんですけど、
玉三郎さんが演じられるとすごく感動しました。
どうやって蘇州の言葉を覚えられたんですか」
玉三郎さん「文字を見て覚えるということが出来ないから、ひたすら聞いてました。
道を歩いていても車に乗っていても耳で覚えて。でもね、
京都でやった時には、お前何言ってるのか全然分からないって言われてたんです。回を重ねて~(銀座?)でやった頃にやっと、言葉分かるようになったわねって。」
土屋氏「相手の言葉も理解されてたんですか?」
玉三郎さん「芝居というのは、相手の台詞がないと次が出てこないんです。ですから、もちろん最初は翻訳の方に付いて頂いてですけど、相手が何を言っているのかは理解してました。」
玉三郎さん「北京に京劇がありますけど、あれは北京語なんですね。南の蘇州が昆劇で、蘇州語。北京の方が都会だから、蘇州のものを北京に持って行った時に、言葉が分からないから北京語でやるようになったものが京劇なんだそうで、だから、京劇も元々は昆劇なんだそうです。」
土屋氏「そんなに南と北で言葉が違うんですか」
玉三郎さん「あ、もう全然違います。標準語は北京語だから、蘇州の人は北京語は分かるんだけど、
打ち合わせの時なんか、蘇州の人が集まって蘇州語でワーワー言ってると、北京の人が、何言ってるのか分からないから標準語て話してくれって言うくらいでした。」
⚫︎桜姫東文章
土屋さん「これが大好きでした、本当に玉三郎さんのお役の中でも僕にとっては特別大好きです」
玉三郎さん「ああ、わかります…」
●揚巻は僕にとって特別なことでしたね。
昔は、政岡や揚巻のお役が来ると、配り物をしていたんです。立女形の役が来ました、というお礼というかお祝い?で。歌右衛門さんの頃なんかはやってましたね。最近はなくなりましたけど、僕も初めて揚巻のお役が来た時には、今何をお配りしたか忘れたんですけど、配り物をしました。
あと桜姫も僕にとって大きな転機でした。南北ものをするということ。
あとは天守物語。
現代の鶴屋南北が泉鏡花だと思うんです。その泉鏡花先生の作品をするということが大きな出来事でした。
歌右衛門さんがやられても、他の方がやられても、天守物語は人が入らなかったんですね。だから、会社にこれやりたいって言っても、お前がそんなのやっても入るわけないだろうって言われたんです。でも、テアトル銀座でやらせて頂いたんですけど、沢山の方に来て頂けて。
●土屋氏「今までに印象に残った役は?」
玉三郎さん「揚巻、政岡、泉鏡花…天守物語、雲の絶間姫、吉野川、日本橋のお考。
若い頃はね、姫は合わないって言われてたんです。それでも絶間姫をやらせてもらって。かたはずしも出来ないって言われてたんです。政岡のお役を頂いて、少しずついろんなものをやるようになったんですね。」
●孤独なんですけれど、孤独だからこそお役や素晴らしい作品を作ろうとしてこられたのかもしれません。孤独だけども、演じる中で牡丹亭では作者の湯顕祖と、もちろん500年も前の人ですから会ってはいないけど、牡丹亭という作品を通じてその魂と会えた。天守物語を通じて泉鏡花に会えた、って嬉しく思ってるんです。
以上が、抜けは沢山あるのですが、第1部の対談コーナーでした。
後半第2部は、参加者からの質問コーナーです。