日本の「アウトサイダー」

 

1922(大正11)年、東京帝国大学経済学部卒業後、直ちに、大森義太郎(おおもりよしたろう)(のち労農派の代表的論客)らとともに助手となり、マルクス主義経済学の系譜に属する研究者としての歩みを本格化させた有沢は、1926年にドイツに留学した。

前述したように、ワイマール共和国最盛期のドイツでの留学体験は、終生の記憶となる。

 

帰国後、東大での講義・演習を担当しながら、同僚らとの共同研究という方法をも活用して現実経済を積極的に分析。

そうした成果は、『中央公論』、『改造』などに次々に発表されていった。

 

しかし、まもなく学問と言論をとりまく情況は大きく転回していく。

 

有沢の回顧を読むと、日本が十五年戦争に突入した頃、東大経済学部の教授会そのものが政治的暗闘の場となり、本来の機能を失っていく様子がわかる。

1933(昭和8)年、京大を舞台とした滝川事件の余波により、衆議院で「最も悪質な赤化教授」と攻撃された有沢は、1938年2月、大内兵衛(おおうちひょうえ)・脇村義太郎(わきむらよしたろう)・美濃部亮吉(みのべりょうきち)らとともに治安維持法違反容疑で逮捕された。

いわゆる教授グループ事件(第二次人民戦線事件)である。

 

この間に、天皇機関説の政治問題化、矢内原忠雄の東大辞職などがあり、日本の「アウトサイダー」たちの活動は逼塞(ひっそく)を余儀なくされていった。

 

以後の戦争の時代に、有沢は、陸軍省軍務局の依頼による経済調査活動(通称秋丸機関、戦争の困難を予測した報告書は杉山元(はじめ)参謀総長の命により破棄焼却処分となった)、高橋(亀吉(かめきち))経済研究所嘱託などの仕事に従事し、一方で、自らの裁判の弁護活動を展開した。

 

ようやく無罪判決を勝ちとったのは1944年9月。

戦争は末期を迎えていた。

 

労農派

1920年代後半から1930年代にかけて、日本のマルクス主義者は二陣営に分立して「日本資本主義論争」を展開した。

 

その際、各国共産党の上部組織コミンテルンに指導された日本共産党および知識人グループ(野呂栄太郎・山田盛太郎・羽仁五郎ら)のことを講座派と呼んだのに対し、それに批判的な知識人グループ(山川均・荒畑寒村・大森義太郎ら)は、雑誌『労農』を刊行して活動したところから労農派と呼称された。

 

論争の基調には、日本における革命を、天皇制打倒のブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化=二段階革命として展望するか(講座派)、それとも、明治維新のブルジョア革命的性格を強調しつつ社会主義革命を一挙にめざすか(労農派)、という革命戦略をめぐる路線対立が存在した。

 

滝川事件

自由主義的刑法学説を唱えて右翼勢力から攻撃された、京都帝国大学教授の滝川幸辰に対する休職処分をめぐり、文部省と京大法学部が全面対決した事件。

結果的に、法学部スタッフの多数が大学を去ることになった。