問題は、「200字論述新研究67(問題25)」で確認してください。

解説は、「200字論述新研究71(問題25を考える➊)」をご覧ください。

 

問題25 解説

 

「内憂」の諸相2

 

江戸幕府は、こうした状況下で、本問が対象とした天保年間(1830~1844)を迎える。

 

この時期になると、天候不順や風水害により凶作・飢饉がつづき、全国で多くの餓死者・病死者が生じた(天保の飢饉、1832~1836)。

凶作によって米価が高騰すると百姓一揆打ちこわしが相次ぎ、百姓一揆の発生件数も急増した。

 

とくに1836年の飢饉は深刻だった。

この年に幕領で連続して発生した甲斐国都留(つる)郡の郡内騒動(約80カ村1万人が参加)と三河国加茂郡の加茂一揆(約240カ村1万2000人が参加)は大きな混乱をもたらし、それは幕府を動揺させることになった。

 

百姓一揆の発生件数

 

 

1837年、ついに大坂で大塩の乱が発生する。

 

大塩の乱の最大の衝撃は、大坂町奉行所の元与力で、著名な陽明学者でもあった大塩平八郎が、大坂という大都市で反乱をおこしたことである。

 

いいかえると、支配身分に属し、かつ学者でもあった人物が最大の経済都市「天下の台所」で公然と権力に反旗を翻したことになる。

こうした性格をもつ事件が発生したのは、幕府開設以来、初めてのことだった。

 

大塩の乱の衝撃は、それだけにはとどまらない。

天保の飢饉に際しての都市民の困窮に、当時の大坂町奉行は何ら有効な手立てを講じようとしなかった。

そればかりか、新将軍宣下(せんげ)の儀式の費用のために江戸廻米の命令をうけると、大坂市中の惨状を無視してそれに応じたのだった。

 

こうした市中の諸役人やこれと結託した特権豪商を誅伐(ちゅうばつ)するため、大塩は、私塾「洗心洞」の門弟20人ほどとともに挙兵したが、その際、蔵書の売却代金を近隣の農民にあらかじめ分け与えたうえで、決起にあたって次のような檄文を飛ばし、彼らに参加を促すという手段をとった。

 

大塩平八郎の檄文

蟄居(ちっきょ)の我等最早堪忍成り難く、……この度有志のものと申し合せ、下民を悩まし苦しめ候諸役人共を誅戮(ちゅうりく)致し、引続き奢(おごり)に長じ居(おり)候大坂市中金持ちの町人共を誅戮致すべく候間、……何日(いつ)にても大坂市中に騒動起り候と聞得(きこえ)候はば、里数を厭(いと)はず一刻も早く大坂へ向け一馳参(ひとはせまい)り候面々へ右米金分け遣はし申すべく候。

 

大 意

蟄居していた我々ももはや我慢できなくなり、……そこで有志と申し合わせて人々を苦しめている諸役人を倒し、さらに贅沢をやめない大坂市中の金持ち町人を倒すつもりであるので……大坂で騒動がおきていると聞いたら、距離を気にせず、真っ先に大坂へ駆けつけた者へ、右の金と米を分け与えるものである。

 

こうした檄文の効果もあって、大塩一党は一時的には300人ほどに達した。

きびしい身分秩序を前提とした近世社会にあって、こうしたタテの結合を組織しようという試みは支配層に相当の恐怖を与えたものと考えられる。

 

乱そのものは大坂市中で小競り合い程度の市街戦が展開されただけで短期間のうちに鎮圧され、首謀者の大塩も、約40日後、潜伏先を探知されて用意していた爆薬で焼死した。

ただし兵火(大塩は決起の際に自邸を焼き払った)は乱発生の翌日夜まで燃えつづけ、市中の5分の1を焼いたと伝えられている。

 

のちの多様な連鎖反応をみても、大塩の乱の与えた衝撃を知ることができる。

民衆の動きについては、「大塩平八郎門弟」の幟(のぼり)をかかげた備後(びんご)三原一揆「大塩平八郎門弟」を名乗った越後柏崎の生田万(よろず)の乱「徳政大塩味方」を標榜した摂津の能勢(のせ)一揆(山田屋大助一揆)、などがある。

 

また、檄文はひそかに書写されて相当広範囲の人々の目にふれたようである。

たとえば、経世思想家の佐藤信淵(のぶひろ)はのちに檄文冒頭部分をみずからの著作の多くに引用している。

 

そしておそらく、乱のもつ衝撃度をもっともよく物語る具体例は、大塩一党の武力行使が幕府に天保の改革をせまる最大の契機になったことだろう。

 

続きの解説は、「200字論述新研究73(問題25を考える➌)」をご覧ください。