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正々堂々と読む解く努力を重ねてくれている皆さん、本当にありがとう。

 

「昭和天皇7つの謎」(『歴史読本』、新人物往来社、2003年12月号)の④「なぜ二・二六事件蹶起将校の即時討伐を命じたのか? 木戸幸一の決断」です。

 

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木戸幸一の決断

 

このような、反乱の有していた計画性や政治変革に向けた萌芽といった点について初めて本格的に言及したのは、筒井清忠『昭和期日本の構造』であった。

 

筒井によれば、二・二六事件最大の山場は、内大臣秘書官長木戸幸一(きどこういち)の政治判断にあった。

「時局収拾の為の暫定内閣」を樹立する方針では、反乱軍に同情的な軍事参議官らに取引材料を与えて反乱軍が実質的に勝利してしまうと見通した木戸は、現岡田内閣の辞職を認めず鎮圧一本でいくという方式を天皇に進言した。

木戸の進言は、事件に対する天皇の自信と態度を決定づけるものではあっただろう。

 

しかし、天皇の断固とした討伐方針は、木戸の態度だけに支えられていたのではない。

この点を、具体的に探ってみることにしよう。

 

木戸は、26日午前5時20分に斎藤内大臣が襲撃されたことを知らされて事件の発生を察知し、警視庁に電話をかけたのち午前六時に参内している。

その際すでに、湯浅倉平(ゆあさくらへい)宮内大臣・広幡忠隆(ひろはたただたか)侍従次長が常侍官室にいた。

 

その直後の宮中の様子が興味深い。

 

木戸の記録によれば、川島義之(かわしまよしゆき)陸相や軍事参議官は参内しているにもかかわらず、他の閣僚たちは一人も参内してこなかった。

また、伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)軍令部総長が「速(すみやか)に内閣を組織せしめらるること」を天皇に言上していることがわかる。

青年将校による上部工作をも駆使した政治改革路線は、意外にも進展しつつあった。

 

木戸の決断は、このような状況下でなされたことになる。

 

26日午前6時という段階で、木戸は、湯浅や広幡に向かって、「後継内閣の組織に着手することとなれば、反乱軍の首脳はもとより反乱軍に同情する軍部内の分子は之を取引の具に供し、実質的には反乱軍の成功に帰することとなると思ふ。であるから此際は陛下より反乱軍を速に鎮定せよとの御諚(ごじょう)を下されて、此一本で事態を収拾すべきであり、時局収拾の為の暫定内閣と云ふ構想には絶対に御同意なき様に願ひ度い」と語っている。